日清日露戦争と太平洋戦争の構図はよく似ていますが、結果は正反対になりました。
それは何故なのでしょうか?
対大国戦
清国は老衰が進み列強勢力に侵食されていたとはいえ、東アジアの盟主として長期間,諸国に君臨していた超大国でした。
またロシアは急速に国力を伸ばし、世界の覇王・大英帝国でさえ無視できない強国になりつつありました。
それに比べ日本はやっと近代国家の形が整ったばかりの極東の弱小国です。その構図は太平洋戦争の対米関係とよく似ています。
にも拘らず日清日露の戦役で勝利した日本が、太平洋戦争では大敗しました。
統帥権問題
統帥権とは国軍に関する事項全てを差配する権限で、大日本帝国憲法では天皇専権の大権であり、事務系列の行政は陸海軍大臣、軍事行動系の軍令は参謀総長(陸軍)・軍令部総長(海軍)が其々担当し、天皇が裁可する形で運営されました。
従って軍の活動に関しては内閣の、つまり日本政府の干渉が事実上認められませんでした。
日中戦争から太平洋戦争における軍暴走の主因の一つがこの統帥権の特異性で、ひいてはその大敗を誘引したとされています。
しかし日清日露の戦役時には統帥権はすでに存在しており、この両戦争と太平洋戦争の結果が正反対に終わったのはなぜでしょうか。
山縣有朋と伊藤博文
統帥権の雛型は、明治政府の陸軍創設に深く関わった山縣有朋が創り上げました。
日清戦争時、山縣は軍令を担当する大本営に籍を置き、その後第一軍司令官として出征しています。
また日露戦争では陸軍参謀総長として戦争指導の中枢を担っています。
一方で伊藤博文は日清戦争の際の内閣総理大臣であり、日露戦争では直接関係する立場ではないものの、伊藤の後進たちの強力な後押しを行い、翌年には併合韓国初代統監となる実力者でした。
彼らは言わずもがな、明治維新生き残りの大物です。
そして山縣は軍事、伊藤は政治と其々得意分野はあるものの、その経験から軍事政治双方に精通しており、戦争の開始から終結までの舵取りを、政府の重鎮としてバランス良く行い得ました。
開始より終結が重要且つ困難な戦争
戦争は始めるに易く、終わらせるに難いものです。しかし国益を守るための手段とするためにはこのことが不可欠です。
これが全うできたのが、日清日露両戦争であり、できなくて国を滅ぼしかけたのが太平洋戦争でした。
太平洋戦争において、山縣有朋や伊藤博文に代わる人物の不在が日本の不幸でした。
山縣有朋は、大正11年(1922年)2月1日、肺炎と気管支拡大症のため死去、享年85。
伊藤博文は、明治42年(1909年)10月26日、ハルビン駅で射殺、享年69。
もし存命だったとしても、太平洋戦争まで、ましてや終戦までは年齢的に生存は難しいでしょうが、もしそのような人物がいれば少なくともあれほど悲惨な敗戦にはならなかったでしょうし、そもそも日米開戦そのものが回避されていたかもしれません。
参照:昭和16年夏の敗戦 猪瀬直樹 著
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