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砲弾を背負って泳ぎ続けた祖父

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私が小学校のころ学校の夏休みの宿題で、戦争についてお爺ちゃんに印象に残っていることを聞いてくるようにという事になったので、第2次世界大戦中、満州にいた祖父から彼の体験談を聞きました。

最初は戦場に行きたくないということで、当時満州にいた祖父は満州の市役所の仕事についていました。
現地の中国人とも仲良く暮らして、いろいろ食物なども持ってきてくれていたとのことです。

祖母は最初の子供(私の母)を身ごもった時に一旦本土に戻り出産してから、母とできるだけのおむつを抱えて、再び満州に戻ってきたとのことです。しばらくして日本は敗戦を続け、満州も統治は危ぶくなってくると、市役所勤めだった祖父も戦場に駆り出されるようになり、

記憶に残っているのは、砲弾を船を接岸せずに送り届けるために、1人ずつ背中に1つ背負って軍艦まで泳いで持っていかされた事で、泳ぎが苦手な人が泳げる人につかまってきて一緒に溺れるものもいたり、壮絶な任務だったとのことです。

その後も満州は中国八路軍の反撃でどんどん追い込まれ、日本人は急いで逃げないと北からロシア軍が迫ってきている状態に。
祖父はある程度の財も満州の家で蓄えていたそうですが、重いものをすべて諦め、母とそのころ3歳弱の私とおむつだけ担いで汽車に飛び乗り、何とか大連まで汽車でたどり着き、船にのって九州まで逃れることができたとのことです。

同じような年齢の子供たちの中には、その途中で親とはぐれたり、息絶えたりした赤ちゃんも沢山いたそうで生きて帰れるだけでどれだけ幸運だったかを話してくれました。

※画像はイメージです。

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