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剣豪の中でミステリアスな印象が強い~柳生十兵衛

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時は既に21世紀を迎えて20年以上が経過したこの2023年、日本では元号も令和へと移り変わり、20世紀の昭和の時代すら遥かな過去の時代となった感も強いが、個人的には非常に残念な感覚を強くする分野がある。
それは今やかつてはエンタメの柱として永らく君臨したテレビ放送でさえ、インターネットの急激な普及でその地位を失いつつある中で、その前の娯楽として大いに栄えた日本映画、特に時代劇の衰退である。

今の映画やドラマは世界的に見ても、SFXやCG等の撮影技術の進化、デジタル化で以前の実写であれば考えられない程の大規模な戦闘描写を作り出している作品も少なくないが、日本固有の時代劇にはあまり当てはまらないように思える。
昨今は日本映画の中でも、中国の春秋戦国時代を舞台とした人気コミック・キングダムの実写映画が公表を博すなど、歴史物自体の製作が皆無な訳ではないが、日本の時代劇は画面映えがしないのかほぼ見かけない。

そんな風潮の中、個人的には1978年に映画とテレビドラマの両方が作成された故・千葉真一氏が主役を演じた「柳生一族の陰謀」が傑作だと感じているので、その主人公・柳生十兵衛について触れてみたい。

目次

柳生十兵衛の実父・宗矩と徳川家との関係

秀忠が徳川家第2代将軍となる遥か前の1594年、時はまだ豊臣政権の時代であったが、柳生十兵衛の実父である宗矩は僅か200石という禄で家康に召し抱えられ、徳川家に仕える家臣となった。

大和の柳生庄を収める小豪族としての柳生家は、柳生十兵衛の祖父で宗矩の実父である宗厳(石舟斎)がその師である剣聖・上泉信綱の新陰流の認可を受けた剣豪だったが、武家としては大成はしていなかった。
しかし宗厳(石舟斎)は、家康の御前で自らは徒手で対戦相手の木刀を奪取して組伏せる、新陰流の奥義・無刀取りを披露した事でその信任を得て、自らの高齢を理由に代わりに息子の宗矩を家康の元に仕官させた。

因みによくフィクション等で描かれる、相手の振り下ろす剣を素手の両手で受け止める真剣白刃取りは、この時に宗厳(石舟斎)が披露した技を大袈裟に拡大解釈したものだと目されている。
何れにせよこうして柳生十兵衛の実父である宗矩は徳川家に仕え、1600年に勃発した関ヶ原の合戦時に大和地域の豪族を徳川方に味方させる工作に成功、旧領であった柳生庄2,000石を回復する。
そして宗矩は翌1601年には秀忠の剣術指南役に取り立てられ、更に1,000石の加増を得て3,000石を有する徳川家の有力な旗本の一人となり、1615年の大坂夏の陣では秀忠の陣を襲撃した豊臣方の刺客複数を斬り伏せた功績でその地位を不動のものとした。

宗矩は1621年には秀忠の子で、後の第3代将軍となる家光の剣術指南役にも就き、その後ろ盾も得て1629年には但馬守となり、1632年には幕府の初代の惣目付に任じられ、幕閣内から諸大名まで監視を担う旗本最上位の役職まで上り詰めた。
その4年後の1636年には遂に宗矩は10,000石を拝領する大名にまで出世、初代柳生藩藩主となったが、その嫡男こそが1607年に生を受けていた柳生十兵衛であった。

柳生十兵衛の史実での足跡

前述した「柳生一族の陰謀」でも主演の故・千葉真一氏が演じた柳生十兵衛は、隻眼の剣豪と言う従来からステレオ・タイプなイメージで描かれていたが、実際には隻眼だったかすら定かではないとされる。
柳生十兵衛は本性は柳生三厳と言い、徳川家康が征夷大将軍に任じられ1603年に江戸幕府を開設、その地位を4男の秀忠に禅譲して2年後の1607年、大和国の柳生庄にて生を受けた事が分っている。

実父である宗矩が第2代将軍となる秀忠の剣術指南役に取り立てられた事は前述したが、この縁で柳生十兵衛も1619年に自身の3歳年上にあたる秀忠の子である家光の小姓の一人となり、剣術の稽古も共にした。
しかし柳生十兵衛は20歳を迎えた1626年、理由は定かではないが家光から蟄居の処分を下され、以後本人曰くは11年間を故郷の柳生庄にて剣術修行と研鑽に励み、武芸者としての己の確立に充てたとしている。

そして柳生十兵衛は1637年に11年振りに江戸へと戻り、実父・宗矩から既に江戸柳生と呼ばれていた流派の薫陶を改めて施され、その後継者たる道を進み、一時的な齟齬はありつつも、最終的には印可を授かった。
翌1638年に柳生十兵衛は、1627年に第3代将軍となっていた家光に再度出仕を許可されて江戸幕府の書院番に就いた。書院番とは将軍家に近侍する馬廻衆で、小姓組と並ぶ高位の役職であったと伝えられている。

再出仕から翌年の1639年に柳生十兵衛は家光の御前で、他の江戸柳生の面々と共にその剣技を披露し、3年後の1642年にはそれまでの研鑽と研究の成果として自身の会得した新陰流を「月之抄」として上梓している。
1646年に実父の宗矩が世を去ると、その12,500石に達していた遺領は兄弟間で分配された為、柳生十兵衛の所領は8,300石となり大名から旗本へと減る形とはなったが、柳生家の家督を引き継いだ。

それから4年後の1650年、柳生十兵衛は鷹狩の為に出向いた京で原因不明の急死を迎え、子はなかったものの実弟の宗冬が家督は継承し、1669年には加増によって再び大名家に復帰、明治までその地位を保った。

フィクションと思しき柳生十兵衛の逸話

柳生十兵衛は多数のフィクション作品の中で隻眼の剣豪として描写されているが、その原因は幼少の頃に実父である宗矩との稽古中に木刀が当たったとする説、または宗矩が放った礫が失明させた説など複数がある。
だが柳生十兵衛を描いたとされる絵では隻眼である描き方はされていない他、現存する各種の文書の中にも柳生十兵衛が隻眼であったと伝えているものは無く、ビジュアルを重視した後世の作品の創作と思われる。

うろ覚えで恐縮だが個人的に好きなテレビドラマ版の故・千葉真一氏が主役を演じた「柳生一族の陰謀」では、確か敵との戦闘で片目を潰されて途中から眼帯をする隻眼になったと記憶している。
そして最も今の柳生十兵衛のキャラクター形成に多大な影響をもたらしているのは、家光から1626年に蟄居を命じられ1637年まで江戸を離れていたと言う経歴で、多くが家光や宗矩の密命を受け諸国を探索して放浪していたと推察されている点だろう。

この間に柳生十兵衛は幾多の強敵と死闘を繰り広げ、その戦いを勝ち抜いてきた猛者として柳生一族の中でも歴代で最強の剣士のように持ち上げられているが、残念ながら何一つそれを裏付ける資料は見つかってはいない。
そもそも前述したように、戦国時代の終盤を生きた柳生十兵衛の実父の宗矩ですら、実際に剣で人を斬ったのは1615年の大坂夏の陣での秀忠の警護中の出来事のみとされており、剣豪とは言え敵を実際に倒した例は極めて少ない。

柳生十兵衛の人となりを表す一方で、家光から蟄居の処分を下された大きな原因ではないと指摘されているのが、酒癖の悪さで飲酒時の態度の悪さが問題視されたのではないか、との推察が数多く見受けられる。

個人的にイメージされる柳生十兵衛の実像

前述してきたように柳生十兵衛は自身が20歳を迎えた1626年、主君であり近侍していた家光の不興を買い1636年までの長きに渡り江戸を離れているが、実父の宗矩はその間の1632年には幕府の初代の惣目付にまで上り詰めている。
この事実を鑑みれば柳生家自体が家光に疎んじられた訳ではなく、柳生十兵衛自身も1638年には再出仕が叶っている点からも、そこまで重い叱責を受けたものとは考えにくい。

実父の宗矩が1646年他界した後は、柳生家の家督を引き継いだ事からもそれは推察されるが、その後柳生十兵衛は自身が4年後の1650年に世を去るまで、江戸の柳生家の頭首となったが為政者としての風聞は少ない。
こうした点から見ても、江戸柳生宗家の跡取りとして「月之抄」を上梓する等、剣豪としての一定の実力と知見は備えていたものの、個人的は政治力等の権謀術数には実父の宗矩程は長けていなかったのではと思えてならない。

※画像はイメージです。

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