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空母運用を生み出した「山口多聞」

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今日の空母運用を生み出した大日本帝国海軍「山口多聞」をご存知でしょうか?

山本五十六の参謀として活躍したのが山口多聞海軍少将。彼の活躍はあまり歴史の表には出て来ないのですが、大日本帝国海軍の近代化に貢献しているのです。
もし歴史にifがあるなら、彼の働きと英知で大日本帝国海軍を勝利に導いたであろうと思う程なのです。

目次

山口多聞の半生

山口多聞は明治25年、東京都に生まれ、多聞と言う名前は鎌倉時代の武将「楠木正成公」の幼名からとって名付けられたました。

中学校を卒業後は広島県江田島市の海軍兵学校へ進学します。
海軍兵学校へ進学したのは、ロシア海軍バルチック艦隊を破った東郷平八郎元帥の勝利を祝う町の提灯行列をみて、海軍軍人になり日本にとって仇なす敵を倒すという理由からでした。
バルチック艦隊への勝利は、日本に及ぼした影響は凄まじく、若者の将来へも希望とも呼べる力を与えた歴史的勝利だったのです。

江田島では、海軍兵学校37期生として帝国海軍式軍人精神を叩きこまれます。海軍兵学校ではヤンチャで有名でしたが、勉強はできる秀才。成績上位者4名に天皇陛下から与えられる恩賜の短剣を賜わるほどの成績で卒業し、大日本帝国海軍少尉として21歳で任官します。
同期には、後の海軍中将であり神風特攻隊を生み出した「大西瀧治郎」や連合艦隊参謀長「宇垣纏」とそうそうたる顔ぶれがいたのした。

初の任務は大正7年、駆逐艦の航海長として地中海まで遠洋航海しドイツのUボートを日本にまで回航させる任務を完遂して、帝国海軍大尉に昇進。大正12年には海軍潜水学校分隊長として潜水艦の任務にも従事しています。

ターニングポイント

そんな彼の運命を変えたのは昭和9年、42歳の時にアメリカ合衆国の米国大使館付き駐在武官として赴任した事です。
この赴任には山本五十六が関わっていて、山本五十六自身もアメリカ合衆国に赴任した経験がありアメリカの工業力や軍事力の凄さを身をもって知っています。

皆さんも聞いた事があると思いますが「大艦巨砲主義」という言葉。そのままの意味で当時の帝国海軍の中枢の参謀達は大砲で艦隊決戦で勝負をする古い考えから脱する事ができていませんでした。
現在の戦争の主流である、航空母艦を中心に艦隊を組んで敵の艦隊を攻撃する戦略は本当の元祖は、大日本帝国海軍が行なった航空母艦赤城を主力に行った真珠湾攻撃が最初でした。

敵の懐まで航空母艦で近づき艦載機で敵地を攻略するこの戦略、当時は画期的な攻撃方法でアメリカ海軍の太平洋艦隊司令部があるハワイ真珠湾に停泊する艦船に大打撃を上げる成功をおさめました。真珠湾攻撃は有名ですがこの戦略に関しての考察をする人は少ないです。
今のアメリカ海軍の空母打撃群の生みの親は敵国であった大日本帝国海軍なのです。

山本五十六は航空機の時代が来る事を予見しその運用ノウハウを学ばせる為、また見聞を広める事を望み山口多聞にアメリカへの駐在武官としての任務を任せたのでした。山本五十六の期待通り、アメリカの工業力、軍事力をまじかに見聞した山口多聞は帰国後に航空戦力の整備を図りました。

大東亜戦争開戦の4年前に戦艦伊勢の艦長として任務につきます。のちにこの戦艦伊勢は航空戦艦伊勢に変わります。これは山口多聞の航空機運用の重要性からかも知れません。

山口多聞という人物

当時の山口多聞は45歳、彼は帝国軍人であると同時に、よき父親でもあり部下から慕われる艦長でもありました。格艦対抗のカッター競技では自らカッターに乗り込んで部下を鼓舞し優勝してみせるなど優れたリーダーでした。
また戦艦伊勢を見学に来た親戚に、戦艦の艦橋には艦長がいる証の艦長旗がたなびいているのを、あれはふんどしではないですよと笑いをとるなどユーモアも持ち合わせ、家では酒を飲むと2階の部屋に上がり、大いびきをかいて寝ていたと息子さんが語っています。

そんな平和もアメリカからの圧力、そして世に言うABCD包囲網により日本は瀬戸際に立たされます。
軍の会議では主戦派が多い中唯一、山本五十六と同じ意見で戦う事を極力避けるべしを唱えたのは言うまでもなく、アメリカの工業力と軍事力を知る山口多聞、48歳の事でした。

山口多聞と志しを同じくする航空機運用派は建造中の戦艦大和をみて、この船に使う鉄鋼があればあと何百機の航空機を作れるとため息をついたといいます。もうすでに戦艦大和の様な巨大戦艦は時代遅れの産物である事を知っている海軍の参謀もいましたが、旧態依然の艦隊決戦で勝負をつけるべしの派閥に押し切られたのも事実です。

真珠湾攻撃

さて帝国海軍連合艦隊第二航空戦隊司令官として空母、蒼龍、飛龍を率いる任務を拝命した山口多聞、その舞台の真珠湾攻撃。
山本五十六の対アメリカ決戦の考えはこのようなもの。アメリカ海軍の太平洋艦隊司令部があるハワイ真珠湾を攻撃して敵艦船を殲滅し、日本が有利な状況でアメリカと講和に持ち込む、その事から山本五十六の2、3年は暴れまわって見せましょううと言う言葉がでたのです。
アメリカの工業力からすると戦艦を作るのは日本より早く、資源も豊富でアメリカに勝てるとは思ってもいなかったので、無論山口多聞もそうでした。

真珠湾攻撃は成功したように見えますが、実は失敗。真珠湾の海底は浅く撃沈したと思った艦船は被弾こそしましたが沈没はしておらず、またハワイのアメリカ軍の工場や燃料備蓄施設を攻撃しませんでした。
そこで山口多聞は第二次攻撃で敵艦船及び工事、燃料備蓄施設を攻撃するように機動部隊長官 南雲忠一少将に意見を打診しましたが、第一攻撃に満足したのか南雲忠一はこの意見を無視しました。

この行動が日本を敗戦に導くとは誰が予想したでしょう?
アメリカの工業力を知る山本五十六ですら、なぜこの第二次攻撃の打診を受け入れなかったのは謎だと言われています。この時、山口多聞はこの戦負けたと呟いたと部下が証言しています。

第一次攻撃で日本へ引き換えした大日本連合艦隊、予想の通りアメリカ軍はすぐに艦船を修理し日本への反撃を開始しますが、このアメリカ海軍の立て直しの速さは計算外でした。そして日本はあの悪夢のミッドウェー海戦へと進むのです。

ミッドウェー海戦直前

ミッドウェー海戦の直前に山口多聞の経験したことです。海軍少将にもなると自宅までは海軍の送迎がつきますが、彼はそれを断り電車で海軍省に通勤していました。
電車の中で乗客が今度は海軍さんはミッドウェーを攻撃するらしいと乗客が話しているのを聞いて、軍の極秘事項が民間人に知られている、もはやこの戦は必ず負けると確信したそうです。

戦場に向かう為に家を出る時、いつも山口多聞は一度振り返り家族に手を振って出撃したそうですが、ミッドウェーに向かう朝は振り返る事なく家を後にしたそうです。
まるで自分の死を知っているかの様だったと、その事を御子息が語っています。

ミッドウェー海戦には連合艦隊ね航空母艦赤城、加賀と主力の航空母艦のみが前線に布陣し、山本五十六が乗る戦艦大和やその他の戦艦、巡洋艦、駆逐艦は後方にいて、山口多聞はミッドウェー開戦の布陣に空母のみを前線に出させるとは何事かと激怒したそうです。

彼の作戦は空母の回りを戦艦、巡洋艦で囲み空からの攻撃に備えるという作戦を打診しましたがまたも却下されました。
いうまでも無くミッドウェーで日本海軍は虎の子の空母のほとんどを失い、このミッドウェー海戦の敗戦を機に日本は劣勢になっていくのです。

爆装を魚雷に

ミッドウェー海戦の目的はミッドウェー島を攻略しそこに飛行場をつくり拠点にする事が目的で、航空母艦に搭載された艦上爆撃機には地上攻撃用の爆弾が装備されていました。
ところが偵察機の報告で近くにアメリカ海軍の空母を中心とする機動部隊を発見し、空母赤城に座上する連合艦隊航空戦隊司令官南雲中将に連絡します。

南雲中将は爆撃機の爆装を魚雷に変えるように指示を出しますが換装には30分以上かかり、すでにアメリカ海軍の航空機が向かっている中での換装作業はまずい、爆装のまま発艦させろという山口多聞の意見を南雲中将は聞きませんでした。
結果は航空機は発艦出来ず、戦艦の護衛もなく敵アメリカ海軍航空機の餌食になりました。

空母 蒼龍、飛龍を率いる山口多聞少将は素早く艦載機を発艦させて応戦し、アメリカ空母一隻を沈め山口多聞少将は空母飛龍の沈没とともに戦死しました。もしこの山口多聞少将の意見が採用されていたら日本は負けていなかったかもしれません。

この事はのちに軍事研究でもテーマにされています。山口多聞少将は素晴らしい先見ある軍人でした。
最後に山に海に空に散華された英霊に感謝と御魂安かれと祈ります。

featured image:See page for author, Public domain, via Wikimedia Commons

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コメント一覧 (4件)

  • 大谷瀧治郎ではなく大西瀧治郎
    赤木ではなく赤城
    誤字がないか確認したほうが良いのでは?

    • ご指摘ありがとうございます。
      投稿の前に校正はしておりますが、作業を1人でやっていて人手不足というのが正直な実情です。
      運営の問題で申し訳ございませんが、もし気になる部分があれば、助けるつもりで連絡頂けると助かります!
      これからもご愛顧頂けると有り難く存じます。

  • 真珠湾攻撃時に第二次攻撃の必要ありと進言した相手は山本五十六ではなく、機動部隊長官南雲忠一少将ですよ.

    ミッドウェー海戦では、山口多聞少将は空母飛龍で戦死されています!

    • ご指摘ありがとうございます。
      手直しました。ライター様が高齢で勘違いしたようです。

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