2023年4月18日で太平洋戦争において連合艦隊司令長官を務めた山本五十六の没後80年となります。
そんな山本五十六は何をした人物なのか紹介します。
誕生から山本家相続まで
山本五十六は1884年(明治17年)に新潟県で生まれました。
旧長岡藩士である高野貞吉の六男として生まれ、貞吉が当時56歳だった事から五十六と命名したとされる。
五十六は学校での成績は優秀であったものの、大家族の高野家は五十六を進学させる余裕は無かった。
そこで学費のかからない海軍兵学校に入学し、海軍軍人への道を進みます。
海軍兵学校を卒業した年に日露戦争が勃発
初陣となる日本海海戦で右足を負傷して左手の指を2本失う重傷を負います。
回復した五十六は軍人としてのキャリアを積み重ねます。
1916年(大正5年)に旧長岡藩の人達から頼まれ、旧長岡藩家老を務めた山本家を五十六は継ぐ事になります。
ここで名前が山本五十六になるのです。
陸上攻撃機を作る
1930年(昭和5年)少将の山本は海軍航空技術部長に就任
この時に陸上攻撃機の開発に関わります。
長距離を飛ぶ航空機で襲来する敵艦隊を迎え撃つ。山本はこの構想から陸上攻撃機の開発を進め、九六式陸上攻撃機として実現します。
ドイツとの同盟に反対
1936年(昭和11年)12月から中将の山本は海軍次官となります。
山本は海軍大臣を補佐する役目に就きました。
山本次官がその存在感を示したのはドイツとの同盟に反対した時だった。
ヒトラーのドイツとの同盟でイギリスやアメリカとの開戦に繋がると考えられたからです。
米内光政・井上成美と共に日独伊三国同盟に反対するものの、山本は同盟を支持する過激派から狙われてしまいます。
連合艦隊司令長官
1939年(昭和14年)に海軍次官から連合艦隊司令長官に就任します。
日本海軍の実戦部隊を総指揮する司令官となった山本
情勢は日米の緊張感は高まり、開戦へ向けて時代は進みます。
1940年(昭和15年)に当時の総理大臣近衛文麿から対米戦の海軍の見通しについて尋ねられた時に「1年や1年半は暴れて御覧に入れます。それから先の事は保証できません」と述べた。
対米開戦に反対であったものの、1941年(昭和16年)に太平洋戦争が勃発
それまでの海軍の作戦計画にはない真珠湾攻撃を実行し、戦争を優位に進めます。
しかし、山本が何としてでも実行したミッドウェー攻略作戦で起きたミッドウェー海戦敗北、続くガダルカナルの戦いで戦力を多く失い主導権を失います。
航空戦力の推進者で奇策と言える真珠湾攻撃を成功させ、連続した作戦で国力が優位のアメリカに勝つ戦略で進めていましたが、国力の差でぶつかる消耗戦で行き詰まります。
まさに近衛文麿へ語った通りの展開となってしまいました。
1943年(昭和18年)4月にブーゲンビル島で戦死します。
featured image:撮影: 海軍省Ministry of the Navy, Public domain, via Wikimedia Commons
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