源義経といえば悲劇のヒーローとして知られ、人気がとても高い武将の一人です。幼少期は牛若丸と名乗り、鞍馬山で天狗から戦の方法を学んだことや京都・五条大橋での弁慶との件はあまりにも有名で、歴史ファンならずとも一度は聞き及んだことがあるでしょう。
一の谷や壇ノ浦の戦いで、多大な戦功をあげて平家追討の立役者となった義経は、あろうことか兄である源頼朝から謀反の疑いをかけられ、一転して追われる身になり、最後は奥州・衣川で自刃したとされています。ところが、室町時代から江戸時代にかけて、義経は死なず北へ生きのびたとする伝説が生まれました。奥州を経て蝦夷地(今の北海道)へ渡り、さらに大陸へと渡って元の国を治めるチンギスカンになったというのです。
道内に残される義経伝説は100か所を超える!?
北海道内には数々の義経にまつわる伝説や事物が残されています。その数は驚くなかれ110か所に及びます。山や岩に義経の名が冠されたものや伝承、義経の名がついが神社などさまざまなジャンルにわたって残されているのです。さらには北海道の先住民族とされるアイヌ民族の中にも義経にまつわる伝説が残されています。
たとえば、道東・本別町のアイヌの古老が語る伝説では、文化神サマイクルが義経であったと言い伝えられています。また、道央・白老町では、アイヌは義経をヨシツネカムイと呼び、建築や器具の製造・使用方法、クマ狩りの技術を伝授した神として崇拝していました。アイヌの人たちが多く住んでいた平取には、「義経神社」が存在し、ご祭神「ハンガンカムイ義経公」がまつられています。
義経伝説が倭人のみならずアイヌ民族にまで広がっていたというのは驚きです。こうした伝説を耳にすると、義経が北海道へ渡りアイヌの人たちへいろんな知恵を伝授しながら、さらに北へと渡っていったという話が本当のような気がしてきます。
なぜ義経伝説が広まった?
義経伝説は、義経のもつ類まれな才覚と戦での活躍ぶりからくるヒーロー像に、兄に追われて自刃するという悲劇が相まって、作り上げられたものといえるでしょう。それがゆえに超人的な五条大橋での立ち回りや八艘飛び伝説が生まれたと考えられます。また、多くの人が義経を愛するがゆえに判官贔屓(弱い立場にの人に対して同情を寄せる)という言葉が生まれたとされています。(判官は義経の職)
こうした庶民に広がる義経愛を、当時の江戸幕府がアイヌの人たちに対する和人化や撫育の一環として用いたのではないかとする説があります。英雄の名を利用して蝦夷地の支配を強めようとしたのですね。北海道での義経伝説は江戸時代から作られだし、日露戦争以降に義経=チンギスカン説が流布されるようになったといわれています。これも日本が大陸に目を向け始めた結果、伝説が飛躍していったと考えられています。
義経人気は今も衰えを知らず
明治維新後、開拓がはじまって間もない北海道に鉄道が敷かれました。その時の機関車の名前が「義経号」、そして「弁慶号」でした。義経の妾であった静御前の名を取った「静」号もありました。当時の鉄道は最先端のインフラで、その名前に使われるわけですから、いかに義経人気が高かったかをうかがわせるものといえます。
またこの時期、尋常小学校の国語読本にも義経伝説が採用され、深く日本人の心に深く刻み込まれることとなりました。こうした影響は現在まで続いているといわれています。
アイヌが大国と戦えたのは義経が戦法を教えたから?
とはいえ、義経は衣川で自刃したというのが歴史学上の通説です。生存説を裏付けるものはありません。しかし、「ひょっとしたら」と思わせる史実があります。これは、アイヌの人たちが、なんと大国・元と長年にわたって戦をしていたという事実です。時は12世紀後半から13世紀前半にかけてです。
義経の生きた時代からは100年近くたっていますので、義経が軍を率いたという事はないでしょう。しかし、アイヌの人たちが大国・元とどうして長年戦う事が出来たのでしょうか?
それなりの組織力や戦略が無くては到底戦う事は難しいと考えられます。
もしかしたら、戦の天才・義経が北海道へ渡り戦法をアイヌの人たちに伝授し、それが脈々と伝えられて、ある程度の組織的な軍事力を持つに至ったのでは、と考えたくなるのは私だけでしょうか?
まとめ
NHKの大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でも義経の活躍が期待されています。菅田将暉扮する義経の一挙手一投足にドキドキハラハラしている方も多いのではないでしょうか?
ドラマに義経伝説が採用されて、この先自刃せず北へ落ち延びるなんていう通説を打ち破る展開をつい期待してしまいますね。こんな判官贔屓な期待をもってしまうのも、義経の魅力なのです。
義経伝説が嘘か誠か、白黒つける必要なんてないでしょう。これこそ日本人が持つロマンチシズムなのではないでしょうか?
※画像はイメージです。
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