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源義経はチンギス・ハーンになった?!

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源義経は奥州平泉で自決をした・・・と言うのは実は事実ではなく、義経は当時の蝦夷地を経由して大陸に渡り、そしてモンゴル帝国を築いた。
こんなロマンをかき立てられる説があるんです。

目次

源義経=チンギス・ハーン説

源義経がチンギス・ハーンになったという説があります。
定説では源義経は奥州藤原氏にかくまわれていましたが、兄頼朝の義経追討令により藤原忠衡の裏切りに合い、最後は自決したことになっています。

しかし、不思議なことに義経の首が鎌倉に送られるのに43日間もかかっているのです。当時でも普通なら20日あれば行けた距離なのになぜ、倍以上の時間をかけたのか?

普通に行ったら首実検で、頼朝は首の持ち主が義経ではないことがわかるでしょう。と言うことは、鎌倉に送られた首は義経本人のものではない・・・それを隠すためにあえて時間をかけて首を運んだといえるでしょう。

では誰の首だったのか?これも一説によると、義経の側近で義経によく似た姿をしていた、いわゆる影武者の杉目太郎(杉妻太郎)だったという説があります。

義経はどうなった?

では自決しなかった義経は、その後どうしたのか・・・実は義経は蝦夷地に渡ったという説があります。
その説を裏付けるように、北海道には義経ゆかりと言われる地が、ほぼ北海道全土にわたってあり、中には義経を祀た神社まであります。

そもそも、義経がかくまわれていた奥州藤原氏と蝦夷地とは当時から海洋貿易による繋がりがありました。だから、義経が蝦夷地に渡った可能性も考えられるのです。

では、なぜ蝦夷地に渡ったのか?それはアイヌ民族を従えて鎌倉に逆襲をかけようとした。そんな説もあるんです。当時の蝦夷地には奥州藤原氏との交易で得た莫大な財産があったことは、出土した古銭郡からわかっています。

義経はアイヌ民族の戦力と財力を手に入れようとした・・・さらには、蝦夷地に農耕を教えて兵糧も確保しょうとした。その証拠としては、アイヌ民族の間では義経は農耕の神様として祀られているのです。

ここまでは、なんとなく理解できるでしょう・・・しかし、歴史上で義経が鎌倉に逆襲をしたという証拠はありません。

義経のその後の足取りは?

ここからがさらに不思議です。
海を渡ったロシアに源氏の家紋である笹竜胆の紋が付いた建物があるのです・・・ということは、義経はロシアに渡った?そしてモンゴルまで辿り着きチンギス・ハーンとなった?!

話が一気に飛んでしまった感があるのですが、義経が自決をしたとされる年令は31歳です。仮に自決をせずに蝦夷地に渡り、さらに海を渡ったとしたら・・・各地に残る伝承によると、蝦夷地を転々として大陸に渡ったのが47歳頃になるそうで、これは、チンギス・ハーンがモンゴル帝国を築いた時の年令とほぼ同年齢なんです!

歴史上に義経がいた頃には、チンギス・ハーンは歴史上に出て来ません。そして、歴史上から義経が消えチンギス・ハーンが歴史上に現れた。ただの偶然と言ってしまえばそれまでかもしれませんが・・・・

もう一つの証拠

実はもう一つ証拠があります、それは「弓」なのです。

当時のモンゴルでは小さなサイズの弓しか使ってないのにも関わらず、なぜかチンギス・ハーンの弓だけは大きな弓だったのです。そして、その大きな弓を使っていたのは、歴史上この近辺では日本だけだったのです!

こんな話を聞くと、源義経は実はチンギス・ハーンだった説も信ぴょう性があるとまでは言えませんが、まるでデタラメの空想だとも言いきれない気がしてきます。

あの広大なモンゴル帝国を築いたのが日本人だったと考えるのはとてもロマンを感じますね。
そして時代はめぐり、モンゴル帝国が蒙古襲来として日本を侵攻してきます。
それは、元義経、チンギス・ハーンの無念の遺志を叶えるためのものだったかも・・・そんな気もしてきます。

ちなみに「三丁目の夕日」で有名な西岸良平先生の初期短編作品の中に、義経がチンギス・ハーンになり・・・というエピソードの漫画を描いています。

著:西岸 良平
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※写真はイメージです。

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