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ついに帰らなかった?誘拐事件の転換点〜吉展ちゃん誘拐殺人事件

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ある春休みの1日、下町の公園や路地では、時に騒がしいほどの声をあげながら子ども達が遊んでいる。
・・・そんな平穏な日常が流れていた。しかし、そのようなつつがない日は何の前触れもなく破られる。

子ども達が家路を急ぐ夕暮れ時、1人の男の子が何者かに連れ去られたのだ。
そしてこの事件は1人の子どもの人生のみならず、社会全体に大きな影響を与えていく。

目次

消えた男の子~事件詳報

公園で遊んでいた子どもが忽然と姿を消した。
最初こそ迷子と目されすぐに見つかるだろうと高を括っていたのだが、事態は転がるように悪化の一途を辿っていく。
いったいどのような事件だったのか詳細を見ていきたい。

壊された日常

1963年(昭和38年)3月31日の夕方、東京の台東区入谷に住む村越吉展ちゃんという4歳の男の子が家のそばにある入谷南公園に遊びにいったまま、帰らなくなった。

両親は幼い息子が迷子になったのだと思い、警察に捜索を依頼。
新聞などでも子どもの行方不明と報じられ、警察や近隣住民総出で吉展ちゃんを探した。しかし、時間の経過に従って事態は徐々に不穏な空気を帯び始める。

吉展ちゃんが、遊んでいた公園で“30代くらいの男”と話していたという目撃情報が警察に寄せられたのだ。
これにより警察は誘拐の可能性があるとし、4月1日に捜査本部を設置。そしてこの翌日、“誘拐”を決定づける出来事が発生する。
犯人から身代金を要求する電話がかかってきたのだ。

1回目の身代金受け渡し

吉展ちゃんがいなくなって丸2日後の4月2日17:48。
村越さん宅に1本の電話がかかってくる。

電話の主は吉展ちゃんの身柄を預かった旨と身代金として50万円を要求すると告げ、電話は切れた。
昭和38年当時のサラリーマンの平均月収は約25,000円。
要求された金額はその約20倍だ。

そして4月6日5:30、誘拐犯から最初の身代金受け渡しについての電話がかかってくる。「上野駅前の住友銀行脇の電話ボックスに現金を持って来い、警察へは連絡するな」というものだった。

吉展ちゃんの母親は急いで指定された電話ボックスに向かったものの、指定された時間になっても犯人は現れない。
母親は仕方なく電話ボックス内に「現金は持って帰ります、また連絡ください」とメモを残し、やむなく自宅へ戻ることになった。
身代金受け渡しが失敗に終わった際の自宅で愛息の帰りを待つ家族の焦れるような心中を思うと、同情せざるを得ない。

日付が変わる直前の4月6日23:12、再び犯人から電話がかかってくる。

「今朝の上野駅の電話ボックスは(警察が張り込んでいたため)危なくて近寄れなかった、今度は証拠として子供の靴を置くからそこへ現金を置け、場所はまた後で連絡する」

そう告げて電話は切れた。
家族、そして捜査にあたっていた警察にしてみれば首の皮1枚繋がった瞬間だった。

2回目の身代金受け渡し

1回目の身代金失敗についての電話があった後、2回目の身代金受け渡しについての連絡は日付が変わった4月7日 1:25、割とすぐにかかってきた。

「今すぐ(母親が)1人で金を持って来い、金を置いたらまっすぐ家にもどれ。吉展ちゃんは金をもらった1時間後に返す」。

母親が犯人から指定された場所は、なんと村越家からわずか300mの場所にある自動車販売店だった。

1回目の身代金受け渡しに失敗した際、犯人は電話で「警察が張り込んでいて危なくて近寄れなかった」と発言している。つまり、犯人自身もすでに村越家が警察の協力を仰いでいると考えていたはずで、吉展ちゃんの自宅に警察が張り付いているだろうことも容易に想像できたはずだ。
なお、事件当時、実際村越家には6人の捜査員が詰めていた。

にも関わらず、犯人はよりによって自宅のそばという警察の目が届きやすい場所を身代金受け渡し場所としたうえ、明確な時間を決めなかったことによって、警察サイドに多少の準備時間の余地を残している。

これは警察にとって千載一遇のチャンスだ。

外を出歩く者など決して多くないだろう時間帯に、何より現金受け渡し場所を自分たちが控えていた村越さん宅から見て目と鼻の先と言ってきたのだ。

誘拐犯が切れ者だとすれば、警察をおちょくっていると受け取られても過言ではないだろう。
実際に警察が張り込む中にのこのこと現れるのだから、犯人が受け渡し場所から身代金を無事に持ち帰れる可能性は極めて低いと考えられる。

これはまさに警察絶対有利の状況なのだ。

母親は言われたとおり、身代金を持ってすぐに指定場所へ向かう。するとその自動車販売店にある軽三輪自動車の上に、見慣れた小さな靴が本当に置いてあったのだ。
吉展ちゃんがいなくなってからすでに1週間が経過しており、本人の安否はもちろん健康状態も気にかかる。

親であれば、愛するわが子が不在の1週間はどれほど長く、辛く、苦しいものであっただろうか。

言われた通りに金を置けば、息子は帰ってくる。
母親はそう信じて犯人の要求通り50万円の入った封筒を指定場所に置き、その場を立ち去った。
監視の目を搔い潜り、果たして本当に犯人は現れるのか。家族や警察の不安や疑問も残る中、犯人は本当に身代金受け渡し場所にやってきた。
そしてあろうことか要求通りに身代金を奪い、そのまま行方をくらましてしまったのだ。

家族の元に戻ってきたのは小さな靴だけで、心の底から待ち望んだ吉展ちゃん本人が帰ることはなく、犯人からの連絡は途絶えてしまった。

いくつもの過ち

金は奪われた挙句、子どもは帰ってこない。
4月13日には警視総監がマスコミを通じて、「罪を憎んで人を憎まずの気持ちでいる。犯人よ、どうか吉展ちゃんだけはどのような方法でもよいから親に返してやってくれ」と犯人に対して頭を下げ懇願した。

これは事実上の警察の敗北宣言と言っても過言ではない。
なぜ、警察は2回目の身代金受け渡し時に犯人確保に失敗してしまったのか考えてみたい。

警察のミス

なぜ警察はこの犯人確保の“絶好の場”で取り逃してしまったのか。
最大の要因は警察と家族との連係ミスにあるのではないだろうか。

吉展ちゃんの家族は犯人から「すぐに自動車販売店へ来い」と言われたわけだが、言われるまま、本当に間髪入れずに出発するのは悪手だ。
さすがに1時間も引き延ばすわけにはいかないだろうが、金の準備を装って家族、特に身代金を指定場所に置く役目を担っていた母親を落ち着かせ、捜査員を先回りさせるくらいはできたはずだ。そして実際、現場にいた捜査員らもそのような計画で行動する予定だった。

しかし、ここで警察は1つ目の致命的なミスを冒す。
犯人からの電話を受けて、吉展ちゃんの母親、車の運転手として親族の者、そして荷台に隠れた捜査員1名の計3名で村越家の車で身代金受け渡し場所へと向かう手筈となった。

一方、村越家宅に詰めていた捜査員には現地に向かう足がないため、家の2階から隣家の物干し台を伝ってこっそり裏道に出て徒歩で受け渡し場所に向かうことになった。
現場の捜査責任者の捜査官は仲間が村越家を出るのを見計らって、母親らに出発の指示を出す予定になっていたのだが、運転手の親族は責任者が「待て」という意味で挙げた手を「行け」の合図と勘違いして早々に出発してしまったのだ。

夜間で合図が見えにくかったというのもあるだろうが、家族サイドとしては一刻も早く金を渡し、子どもを取り戻したいわけだから気が急いてしまい勘違いを起こしてしまったのではないだろうか。

いくら懸命に走ろうとも車のスピードに勝てるはずはない。

捜査員らが現場に到着したのは、母親が軽三輪自動車の上に身代金を置いて立ち去ってから3分後のことだった。そしてこの3分の間に犯人は身代金を奪い取っていったのだ。
これは家族側のミスであると言えなくもないが、家族らは子どもがいなくなってすでに1週間が経過し、精神的にかなり疲弊し冷静さを失っていたはずだ。

事件解決に向けて、そんな家族を落ち着かせ、自分たちの指揮下で沈着に行動するように制御することも身代金誘拐事件捜査における警察の仕事の1つのはずだ。
吉展ちゃん誘拐事件発生当時は警察内で誘拐事件解決に向けてのノウハウがまだ少なかった時代ではあったものの、人の命がかかっている局面でそのような言い訳は通用しないだろう。

加えて2つ目のミスが起きる。

捜査員らは現場到着後、約1時間半ほど当初予定していた各人の持ち場で息をひそめて犯人を待ち構えていた。身代金はすでに持ち去られた後である、にも関わらずだ。
捜査員らは受け渡し場所の軽自動三輪を自動車販売店の正面に停まっている車を懸命に見張っていたのだが、なんと実際の受け渡し場所に指定されていたのは別の車だったというのだ。

もしも現場到着時点で身代金が奪われたことに気付き、早々に周辺を捜索していればもしかしたら犯人を取り押さえることができた可能性もある。

原因はやはり母親らを乗せた車よりも警察が後に現場に到着し、身代金が置かれた場面を直接見ていないことにあるが、無為な時間を過ごしたと言わざるを得ない。
さらに1人の捜査員が現場に向かう途中、身代金受け渡し場所から歩いてくる背広姿の不審な男とすれ違ったにも関わらず、職務質問を怠るなど警察の手落ちが随所にみられる。

警察の過ちによって事件解決が遠のいたといわれても致し方ない。

制度上の弊害

吉展ちゃんが誘拐された1963年当時、防犯カメラやドライブレコーダーなどというものはなく、誘拐する側からすれば、非常に犯行を実施しやすい環境だったと言えるだろう。

この事件も、もしもこういったものが存在すれば、事件は比較的早く解決できた可能性は当然高い。そしてこの事件発生時には、誘拐事件解決のために最も重要とも言えるある捜査手法が使われなかった。

それは逆探知だ。

逆探知自体は1960年代でも技術的には十分に可能であった。
しかし、当時日本唯一の一般電話サービス提供会社であった日本電信電話公社(現・日本電信電話株式会社、通称NTT)は「通信の守秘義務」を主張して逆探知を認めていなかったのだ。

犯人は村越家に10回ほど電話を寄越しているのだが、4月4日22:18にかかってきた電話は実に4分以上、犯人とやり取りできている。

もし逆探知が可能であったなら、この通話で犯人が電話した場所を特定できた可能性が高い。

そもそもこの事件では、発生から身代金を奪われるまで、誘拐の目的も犯人像も絞り込めず、警察は終始後手の対応を取らされていた。
電話の場所がわかれば、そこから得られる情報は多数あり、より積極的な捜査ができたはずであることからも逆探知の手法が使えなかったことは非常に悔やまれる。

難航する捜査と事件の結末

人質救出失敗という失態を犯した警察。
しかもここから重ねてきた過ちの影響で事件解決までさらなる苦難の道を辿ることになってしまう。

ミスと切り札

犯人からの連絡が途切れたことで、事件は暗礁に乗り上げてしまう。
さらにここで警察は今後の捜査において重要なある点についてミスを犯す。
自動車販売店での身代金受け渡しの際、吉展ちゃん家族と警察は本物の現金50万円を用意していた。

万が一現金を奪取された際(その万が一は現実のものとなったのだが)、偽札であるこがバレて犯人を刺激してしまい、吉展ちゃんに危害を加える可能性を恐れたためだ。そして本物の現金を用意したにも関わらず、その身代金に使用された紙幣のナンバーを控えるのを失念してしまったのだ。

身代金として使用された紙幣は後々、本当に使用されている。
もしも紙幣ナンバーを控えていれば、犯人追跡の手がかりや逮捕の有力な決め手となったことは言うまでもない。

一方で警察には唯一と言ってもいい手がかりが1つあった。それは犯人が村越さん宅にかけてきた4分ほどの電話の録音記録だ。
逆探知こそ行えなかったが、捜査員らは身代金要求にしては長電話となったこの通話の録音に成功していた。
警察はこの録音内容の解析を専門家らに依頼。そこから、犯人の年齢は推定40~55歳くらいとされた。

学者らによって電話の主の話し方やアクセントから、犯人の出身が宮城県・福島県・山形県の南東北または茨城県・栃木県の北関東のいずれでかではないかと指摘されている。
なお、推定年齢については吉展ちゃん失踪時にあった「30代くらいの男が吉展ちゃんと話していた」という目撃情報を乖離しており、結果を見れば、捜査の初頭においてミスリードを生むことにつながってしまう。この推定年齢については後に別の専門家に再鑑定が依頼され「30歳前後」と訂正された。

さらに警察はこの電話の録音を「犯人の声」として公開に踏み切る。

音声はテレビやラジオなどを通じて放送され、多くの国民が幼気な子どもを攫った悪鬼の声に耳を傾け、周囲に似た声の者がいないかと耳をそばだてた。
日本はまさに総国民捜査員状態だ。
最終的には約1万件にも上る情報が警察に寄せられ、その中からある有力な容疑者が浮上する。

浮かびあがった男

「声が似ている」という複数の通報を受け、5月頃に捜査線上に上がったのは小原という事件当時30歳の男だった。
さらに捜査が進むと吉展ちゃん誘拐事件以前、小原は金に困った様子だったが事件の後は大金を得ていたようだという情報を掴む。

警察は早速小原を取り調べるも、逮捕には至らなかった。
警察が確証を持てなかった大きな理由は3つあったとされている。

1つがアリバイだ。

本人の申し出によれば、吉展ちゃんが誘拐された3月31日を挟み、小原は3月27日から4月3日にかけて故郷の福島に帰省していたという。

2つ目が小原の身体的特徴によるものだ。

小原は幼い頃の病気の影響で右足が湾曲しており、歩き方にも癖があり俊敏に動けるようには見えなかったため、身代金受け渡し場所から約3分で金を奪って逃げるのは難しいだろうとされた。

そして3つ目、ウソ発見器の結果がシロであったことなのだが、このウソ発見器の精度については疑問が残る。

小原の年齢が30代であり、当初の犯人の推定年齢であった40~55歳くらいから外れていたことや小原が得たとされた大金の金額が20万円と身代金の金額とは合致しなかったことも遠因だろう。
小原については警察だけでなく、マスコミからもマークされていた。

ある記者が行き付けの喫茶店で「(警察が公開した)声によく似た人を知っている」という話を耳にする。

その「よく似た人」こそ小原だった。

記者は張り込みを決行し、小原がよく顔を出す飲み屋を探し当てた。この飲み屋は小原の恋人の店で、店の2階に小原と恋人は暮らしていた。
記者はそこで小原へのインタビューを行った上、電話をしてその時の会話の録音まで行っている。
この録音結果は、警察が公開した犯人の声とぞっとするほど酷似たものだったという。

あきらかに怪しい容疑者ではあったものの、決め手に欠ける。

ここに至るまでの数々の失態が明らかになり、未だ幼児誘拐犯が野放しになっている状況に、警察に対する世論からの風当たりも相当に強いものとなっていた。

閉塞する捜査状況ではあったものの、転機が訪れる。
それは小原が1963年8月に賽銭泥棒の罪で懲役1年6ヵ月(執行猶予4年)の判決を受け、執行猶予中であるにも関わらず、同年12月にさらに窃盗を犯して実刑が確定し、1964年4月から刑務所に収監されていたこと。そして事件から丸2年が経った1965年3月31日に事件の捜査が一警察署から警視庁捜査一課に移され、平塚八兵衛という男が捜査に加わったことだった。

昭和の名刑事、落としの八兵衛

刑事・平塚八兵衛は学校卒業後、はじめは茨城県の土浦で農家として働いていた。しかし、とある事件で誤認逮捕された際に取調中に殴る蹴るの暴行を加えられる。
警察のこのようなふるまいに憤慨した平塚は警察官になることを決意して上京、警視庁に入庁する。

そのキャリアを交番勤務からスタートさせた平塚は検挙率が同庁トップの記録を打ち出し、捜査一課へ異動。
以来、退職までの30年以上を捜査一課一筋に徹した。

そんな平塚が扱ってきた事件はどれも、戦後の大事件と言っても過言ではないものばかりだった。
確定しただけでも実に7名の女性を強姦し殺害した小平事件や、銀行員ら12名を毒殺して現金を持ち去った帝銀事件、昭和最大の謎とも称される三億円事件などを扱い、戦後事件史のキーパーソンともいえる人物だろう。

吉展ちゃん誘拐事件を仕切り直す形で捜査を再スタートさせた平塚らは、改めて小原に目を付け、徹底的にアリバイの洗い直しを進めていく。その中で、小原は3月27日から4月3日にかけて故郷の福島に帰省していたと主張し、福島で実際に小原を見たという目撃証言もあったのだが、誘拐された3月31日の目撃証言は誤りであったことが判明。

足が不自由なため、俊敏に動くことができないのではないかとされていた点も、動作に問題はなく、走ることが可能だという裏付けも取れた。また、小原が持っていた現金も恋人に渡した20万円の他に約30万円を支出していたことが分かり、身代金金額とほぼ一致する。

極めつけは、収監されていた前橋刑務所から東京拘置所に移管して取り調べた際、彼は「日暮里大火を何かの電車から見た」と発言する。
日暮里大火とは、1963年4月2日の午後に発生した火災で、日暮里市街地の5,000㎡以上を焼失させた大規模火災であった。

小原はそれまで東京に戻ったのは4月3日と言っていたが、この発言によって4月2日時点で東京にいたことを認める形となってしまう。
この発言をきっかけに平塚らは小原を追い詰め、ついに彼は犯行を自供。

荒川区南千住にある円通寺の墓地に隠したという証言通り、寺からは子どもの遺体が見つかり、吉展ちゃん本人であることが確認された。
小原によれば、吉展ちゃんを誘拐した際に自分の足が不自由であることを見られたため、親元に返した時に犯人と特定されることを恐れて攫った直後にはもう殺害していたそうだ。つまり、身代金要求の電話がかかってきた際には吉展ちゃんはすでに殺害されており、いくら金を渡したところで、村越さんらの元に愛する息子が無事に帰宅することはあり得なかったのだ。

どうにかアリバイを崩し、犯人逮捕までこぎ着けた警察ではあったが、逮捕までに2年もの歳月が必要だったのかという点に疑問が残る。

吉展ちゃん誘拐殺人事件の解決は平塚の名を押し上げた事案でもあったのだが、果たしてこの捜査は平塚でなくては出来ないことだったのだろうか。
特に地元・福島での目撃証言の洗い直しはなぜ当初から徹底されなかったのか、小原の運動能力の確認だって小原周辺の聞き取りかなどからそんなに手間をかけずとも出来たのではないかと思ってしまう。

もちろん当時の捜査の過程でなにか事情があったのかもしれないが、この事件は発生当初から逮捕に至るまで、どうにも警察の手落ち感が拭えないものであった気がしてならない。

小原に下された罰

小原は営利誘拐・殺人・死体遺棄・恐喝で起訴され、死刑が確定する。そして死刑確定から4年後の1971年、東京拘置所で死刑を執行された。
今の死刑確定から執行までの年月を考えると小原の死刑執行はかなり短期間だったようにも思える。

当時は死刑囚の冤罪というものが想定されていなかったという事情もあるための死刑執行までの流れのスピード感が居間とは異なるという点もある。しかしそれだけではなく、あくまで想像にはなるが、1つはこの吉展ちゃん誘拐殺人事件の日本国民の関心の強さにあったのではないだろうか。

犯人の声が公表されて以降、吉展ちゃんの無事を願い作られた楽曲、「かえしておくれ今すぐに(返しておくれ今すぐに)」が巷に流れた。

犯人逮捕後の1965年にNHKで放送された「ついに帰らなかった吉展ちゃん」という番組は月曜日の朝時間帯の放送であったにもかかわらず、視聴率は59%と、紅白歌合戦や各種スポーツイベントと肩を並べ歴代9位の視聴率を記録している。
それだけ日本中がこの吉展ちゃん誘拐殺人事件を注視していたことを裏付ける数字と言えるだろう。

加えて1960年代に頻発した子どもや若者が標的となった誘拐事件への見せしめや終止符感を印象付ける目的があったのではないだろうか。
特に吉展ちゃん誘拐殺人事件では、結果逮捕出来たものの、発生時には犯人を取り逃がし、身代金強奪に成功したことが誘拐事件は簡単に起こせるものという印象を世間に与えてしまい、1960年代の誘拐事件頻発に繋がったという見方もできる。

そうした誘拐事件の犯人や企てようとしている者に対して見せしめとなるよう、まだ世間の記憶が風化しないうちに小原の死刑執行となったのではないだろうか。

映画「天国と地獄」と吉展ちゃん誘拐殺人事件が与えた影響

小原はなぜ子どもを誘拐し、身代金を奪うという犯行に手を染めたのか。
無論、その根本的な理由は小原が金に困っていたことにあるのだが、それならばどこかの店に強盗に入るでもよかったはず。
小原が金を得るために誘拐を選んだ理由、それは映画・「天国と地獄」の予告編を見たことがきっかけだった。

天国と地獄は巨匠・黒澤明監督の代表作だ。
ネタバレになるので詳細な解説は控えるが小原に影響を与えたのが、話に登場する誘拐犯が子どもの命と引き換えに身代金を要求、犯人は身代金を手に入れた、という部分だ。

小原はこれを金がないなら金持ちの家の子どもを誘拐して身代金を奪えばいいと受け取り、実行に移した。
なお映画が伝えたかったことは、当然こんなことではない。

このように思い付きで犯行に及んだため、吉展ちゃんを誘拐した時点で小原は吉展ちゃんの親も家も知らず、報道協定が実施される前に迷子として吉展ちゃんの失踪を伝えた新聞で詳細を知り、身代金要求の電話をかけたのだ。

身代金目的の誘拐は突発的に行える犯行ではない。

身代金を払えるだけの財力がある(ありそうな)家か、誘拐できそうな人物がいるか、連れ去り可能な状況を作り出せそうかなどを調べ、身代金の受け渡し場所や家族・警察との交渉など綿密な準備やシュミレーションが必要であろうことは想像に難しくない。

子どもが身代金目的に誘拐される映画があったから、自分もやってみようなど、あまりに短絡的で浅はかとしか言いようがない。

本来、映画はあくまでフィクション、現実世界で同じようにうまく事が進むわけはないはずなのだが、小原は身代金を奪い、約2年もの間逃げおおせることに成功してしまった。
そしてこの事実が、さらなる誘拐犯を生むことに繋がってしまう。

本事件が未解決で捜査中だった1964年、5歳の幼稚園児が誘拐される仙台幼児誘拐殺人事件が発生。
この事件の犯人は吉展ちゃん誘拐事件を元に犯行を思い付いたと告白している。
さらに1969年、朝の渋谷で小学生男児が誘拐、殺害される正寿ちゃん誘拐殺人事件も発生。
こちらの犯人(19歳)は芸能人のような豪奢な生活を送るために、身代金誘拐をして金を手に入れようと計画した。

犯人は誘拐後、被害者をすぐに殺害しているのだが、遺体を渋谷駅構内の携帯品一時預かり所に隠した後も正寿ちゃんの履いていた靴は別に持ち歩いていた。
これは吉展ちゃん誘拐事件の際に小原が身代金受け渡し時に吉展ちゃんの靴を使ったことを参考にしたと犯人自身が語っている。

犯罪者が完璧な犯罪計画を描く際、過去の犯罪を参考にすることはあるのだろう。
吉展ちゃん誘拐殺人事件は吉展ちゃんだけでなく、罪なき子ども達のさらなる犠牲という負の連鎖をも生み出してしまったのだ。

事件をきっかけにした変化

吉展ちゃん誘拐殺人事件をきっかけに誘拐事件をスムーズに解決し、また未然に防ぐことができるよう社会制度は改善していった。
無辜の子の犠牲の上ではあるが、社会はより良い方向へと変わり始めたのだ。

特殊犯捜査係の創設

吉展ちゃん誘拐殺人事件がうまく解決に導くことができなかったのは、警察内部での誘拐事件解決に向けてのノウハウの少なさが根本的な原因だと考えられる。

そのため、警視庁は誘拐事件をはじめとする人質がいる事件やなどに専門的に対応する部隊して、捜査一課内に特殊事件捜査係を設置する。
この特殊事件捜査係は全国すべての都道府県に設置され、今日までに多くの凶悪事件と向き合い人質解放と事件解決に貢献してきた。

逆探知

吉展ちゃん誘拐殺人事件においては制度上の問題で実施することがかなわなかった電話の逆探知だったが、この事件を契機に受信者の了解があり、犯罪捜査のためという条件付きで認められることになり、誘拐をはじめとする事件捜査の一助となっている。

報道協定

報道協定とは、主に身代金目的の誘拐事件やハイジャックをはじめとする立てこもり事件などで人質の安全確保や捜査上の支障を避けるため、警察や政府機関と報道機関の合意の上で事件の情報の報道を自粛する制度だ。

この報道協定という制度自体は、1960年に発生した雅樹ちゃん誘拐殺人事件をきっかけに制定されたものだ。
雅樹ちゃん誘拐殺人事件とは、当時7歳だった雅樹ちゃんが小学校登校中に身代金目的で誘拐され殺害された事件。

当初、犯人は雅樹ちゃんを生かしたまま身代金を要求し続けていた。しかし、マスコミが誘拐事件を報道したことを犯人が知り、犯行がバレるとパニックになり雅樹ちゃんを殺害してしまうという悲劇が起きた。

この報道協定が初めて実施されたのが吉展ちゃん誘拐殺人事件だった。

吉展ちゃんは誘拐されたすぐの段階で殺害されていたため、報道協定の効果というものはなかったが、その後は報道協定が実施されたことで守られた命も少なくない。
ただ、インターネットやSNSの普及によって、マスメディア以外から情報が発信されることも増えている。
報道協定の在り方も今後は再検討されていくべきなのだろう。

刑法225の2項

元々 誘拐については刑法第225条において「営利、わいせつ、結婚又は生命若しくは身体に対する加害の目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、1年以上10年以下の懲役に処する」と規定されていた。

しかし、1960年代初頭、吉展ちゃん誘拐殺人事件や雅樹ちゃん誘拐殺人事件などの凶悪誘拐事件が頻発したため。第225条の2として、「近親者その他略取され又は誘拐された者の安否を憂慮する者の憂慮に乗じてその財物を交付させる目的で、人を略取し、又は誘拐した者は、無期又は3年以上の懲役に処する」という規定が新設された。

罰の厳格化によって、犯罪抑止の効果を狙ったのだ。

誘拐事件史のターニングポイント

吉展ちゃん誘拐殺人事件は、人質救出失敗、加えて身代金を奪われ犯人の逃走を許すという最悪の結果に終わった。
この事件は警察組織の在り方や制度改革、そして社会の「誘拐を絶対に許さない」という気運の醸成を生み出し、今日の身代金誘拐事件の解決の一助となっていると言っても過言ではないだろう。

しかし、時代が変わる。

現代の誘拐事件で身代金を目的とするものは徐々に減り、むしろ人質を売春や犯罪行為に加担させ労働力として利用し搾取するタイプの事件が増えているように思える。
誘拐の手口としてSNSが利用されるようなり、言葉巧みに誘い出されることで人質本人や周囲が気が付かないうちに連れ去られた状態に陥っているという事例も出ている。

今、誘拐事件の在り方は再びターニングポイントを迎えているのではないだろうか。

参考:吉展ちゃん誘拐殺人事件 – Wikipedia

featured image:English: Abasaa日本語: あばさー, Public domain, via Wikimedia Commons

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