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とある青年の戦争と引き揚げ

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私の祖父は大正15年生まれで、無口な人でしたが大酒飲みでした。ボーナスをもらえば一晩で飲んでしまい、若いころは一度に一升瓶一本余裕で空けていたらしいです。

戦争体験はつらいものがあったらしく、普段語ることはありませんでしたが、話が聞けるうちに・・・と無理して満州に出征していたころの話を一度聞いてみたことがあります。それから数年後に祖父は大往生しました。

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戦時中の話

祖父は昭和18年、戦局の激化により、東北地方の漁村の高校を繰り上げ卒業することになりました。卒業と同時に満州政府の出先機関に事務方の下っ端として就職し、渡航しました。就職後は戦争中にも関わらず、意外と穏やかな暮らしを送れたそうです。

現地の人(祖父は「モンゴル人」と言っていました)と仲良くなって一緒に大好きなお酒を飲んだりもしたそうです。晩年まで、当時覚えた満州の民謡を、親戚が集まった時などに歌っていました。

私たちは、「またじいちゃんのリサイタルが始まったよー」と苦笑いで流してしまいましたが、思えば当時の祖父は現代で言う大学生の年代に相当する頃、外地で過ごしていたことになります。その感慨は想像以上だったのだろうと、祖父がいなくなってから話します。

徴兵され陸軍へ

昭和20年の終戦直前、祖父は陸軍に現地召集されました。うろ覚えなのですが確か「関東軍の戦車部隊の後方で黒竜江省へ」と言っていたような気がします。

出征後はやはりこれまでのような暮らしはできず、それなりに過酷だったようです。ただ、戦後待ち受ける事態があまりにも壮絶すぎたのか、このころの話はあまりしませんでした。

終戦後、引き揚げ

昭和20年8月、終戦に伴い現地除隊となりました。あとはおのおの勝手に帰れ、という感じだったようです。
祖父は満州に放り出され、連合国軍(特にロシア・朝鮮軍人)に追われる暮らしを送ったそうです。見つかったら命がないと、必死で逃げ延びました。

戦中に仲良くなっていたモンゴル人が家の屋根裏を貸してくれ、そこで1年以上暮らし、機を見て内地に向け出発しましたが、あと少しのところで行列を切られて列車に乗れず、悔しい思いをしました。

ただ、その列車はシベリアに行ったのだと後から知ったそうですが・・・・・・。
ほうほうの体で帰国したのは、昭和22年の夏。終戦から2年の月日が流れていました。

※写真はイメージです。

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