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イプシランティの3人のキリスト実験の被験者に選ばれた時の為に

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昭和期、精神疾患に対する扱いは、19世紀以前のそれと大差なかった。
精神疾患は人権を制限するに十分な口実として、非人道的な実験は行われた。
ロボトミー手術はその中でも特にショッキングなものだが、「イプシランティの3人のキリスト実験」もまた、非人道的な実験であった。

目次

イプシランティの3人のキリスト

『イプシランティの3人のキリスト(The Three Christs of Ypsilanti)』は、1964年に出版された研究書である。
本書に記されるのは、とある妄想型統合失調症患者に対する実験である。

舞台はミシガン州イプシランティの州立病院、実験者は社会心理学者のミルトン・ロキーチである。
彼はとある実験にインスピレーションを受けた。

「2人の聖母マリア実験」

自分を聖母マリアだと思い込んでいる、2名の統合失調症患者を精神病院内でルームメイトにしたものである。
結果として、対話を通じて1名が妄想から抜け出したという。
彼はこの結果に感激し、更に複雑な状況を設定した。

すなわち、「3人のキリスト実験」である。

三雄並び立たず

自分を聖人の生まれ変わりと考える妄想は、しばしば見られるものである。
ロキーチが捕捉した中でも10名の候補者がいた。
彼はそのうち、3人の「自称キリスト」をルームメイトとした。

1名は大学を中退した青年、1名は農業を営む老人、1人は作家崩れである。
彼らは同じ部屋で過ごし、簡単な仕事をさせた。
その後は「2人のマリア」とは異なる展開となった。

3人が和解する事はなく、それぞれが「自分以外の2名は妄想に囚われている」と訴えたのだ。
言い合いや殴り合いにもなり、その後、互いを避けるようになっていった。
結局、誰1人として妄想が治まる事はなく、何ら治療効果のないまま、彼らは元の病院に戻された。

この「実験」は、ロマンチックな展開を期待したロキーチの過剰な介入もあったため、実験として客観性を欠く破綻したものであった。
結局、1人の研究者が好奇心任せに3人の病人を、より不安な状況に放り込んだ虐待行為と言わざるを得ない。
ロキーチはこの実験の非倫理性について、協同研究した大学院生からも批判を受け、反省の一文を書き添えている。

お前は誰だ?

さて、この実験のポイントは、「複数の人間が自分と同じアイデンティティを持つという矛盾との対峙」 であったとロキーチは考えている。

キリストというと分かり難いが、要するに、自分を名乗るもう2名が現れ、同じ部屋で寝起きさせられるという事である。
非常に混乱を招く状況であり、同じ状況に放り込まれれば、そのまま精神を病む可能性は十分あり得る。

我々は第二のロキーチが現れた時、どうやって健全に自我を保てば良いのだろうか?

第二の自分の受容

解決方法は単純である。
「第二の自分がいる状況を受け容れる」事だ。

つまり「3人のキリスト」という概念がそもそも、異常ではない、という話である。

キリストは三位一体なので、概ねYHVHと同等のパワフルな存在である筈だ。
自分の現し身を作る事など容易い。

だとしても、同時に3人存在するのはおかしい。
だろうか?
キリストが常に独りだとしても、全能に「時間移動」が含まれれば、独りのキリストが何度も時間を重複して受肉するという状況があり得る。

だとしたら、対立するのはおかしい?

それは受肉のシステムの問題だ。キリストの魂は当然、全知全能の存在だろう。
だが肉の体を得た時点で、物理的な存在となる。
当然、脳細胞も物質面に支配される。
さもなければ、わざわざ人に受肉する必要がない。単なる超越者として現れれば良いだけの事だ。
人間の姿と頭を使って地上に現れる事に意味があるからこそ、受肉は行われるのだ。

一人称で描かれる世界の違和感

同じように、現在の自我についても考えられる。

あなたは、世界が「一人称」で描写される事に、違和感を抱いた事はないだろうか。
自分という自我があり、そこから世界が観測されている。
他の人間も同様に自我がある筈なのに、目の前の別人をブレインジャックは出来ない。

その意味で、周囲の人間は全て背景と変わらない。
この時、目の前にあなたを名乗る、人間が出て来る。
細胞1つまで寸分狂いなく同じだとしても、自我はこちら側にある以上、明確にあなたではない。

結論を言おう。
あなたの感覚を感じ取っている、宇宙に唯一の「意思」がある。
目的は娯楽と定義しておこう。マルチ主人公のAVGプレイヤーのようなものだ。

このゲームは、別キャラ視点でもプレイ可能だ。
そして、そのプレイ内容は、別キャラのプレイ時に反映される。
プレイに集中している時、プレイヤーは操作キャラとシンクロする。自分がプレイした筈の別キャラに対して、苛立つ事もある。

こう考えた時、少し加減が狂えば、自分と同じアイデンティティを持つ人間が現れるのは当然だ。
何しろ目の前の人間は、「意思」にとっては、次にプレイするキャラ、または前にプレイしたキャラなのだ。

この認識でいれば、ロキーチが如きマッドサイエンティストに拉致され、非人道的社会実験に放り込まれても、自我が揺らぐ事はないだろう。
あなたの元に一人称がある限り、周りは今は脇役でしかない。同時に、向こうに一人称が移る時もある。
どっちが「先のキリスト」であるか意見対立する事はあるだろうが、大して意味のない論争だ。

全知全能の「意思」が、同じキャラを何度プレイしているか、分からないのだから。

※画像はイメージです。

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