1966年、日本の出生数は前年の約183万人から約136万人へ激減しました。
わずか1年で約46万人、25%以上の減少。
ところが翌1967年には、出生数は再び約194万人まで増えています。
一年だけ、出生数が大きく落ち込んだ。
その年は、六十年に一度めぐってくる「丙午(ひのえうま)」でした。
「丙午」とは何なのか
子(ね)、丑(うし)、寅(とら)、卯(う)、辰(たつ)、巳(み)、午(うま)……。
十二の動物が一年ごとに入れ替わる「十二支」は、現代の日本でも年賀状や初詣、年男・年女などを通して身近な存在です。時代劇などでは「丑三つ時」のように、時刻を表す言葉としても登場します。
ただし、一般に「干支(えと)」と呼ばれているものの正体は、十二支だけではありません。
本来の干支とは、「十干(じっかん)」と「十二支」を組み合わせた「十干十二支」のことです。
十干とは、甲(こう・きのえ)、乙(おつ・きのと)、丙(へい・ひのえ)、丁(てい・ひのと)、戊(ぼ・つちのえ)、己(き・つちのと)、庚(こう・かのえ)、辛(しん・かのと)、壬(じん・みずのえ)、癸(き・みずのと)の十種類を指します。
この十干と十二支を、どちらも一つずつ進めながら組み合わせていくと、甲子、乙丑、丙寅……と六十種類の組み合わせができます。
十と十二を単純に掛ければ百二十通りになりそうですが、十干と十二支は自由に組み合わせるわけではありません。
両方を同時に一つずつ進めるため、六十回で最初の組み合わせに戻ります。
これが「六十干支」です。
人間が六十歳になると「還暦」と呼ぶのも、この六十年で干支が一巡することに由来します。
干支の歴史は非常に古く、中国の殷王朝時代、紀元前二千年紀の甲骨文には、すでに十干十二支による日付の記録が確認されています。
もともとは日を数えるために使われていた干支は、その後、年や時刻などにも用いられるようになりました。
さらに中国では、春秋戦国時代以降に発達した陰陽説や五行説と結び付いていきます。
陰陽説では、天地や男女、寒暖など、対となる性質を陰と陽に分類します。五行説では、木・火・土・金・水という五つの性質によって自然界の変化を説明します。
こうした思想と干支が結び付くことで、暦だけでなく方位や吉凶を判断するための体系としても利用されるようになりました。
日本でも、干支は単なる日付や年を表すものに留まらず、暦、方位、占い、民間信仰などと結び付いていきます。
そして六十種類ある干支の中に、特に強い俗信を持つものがありました。
「丙午」です。
丙午とは何なのか
丙午は「ひのえうま」と読みます。六十種類ある干支の一つで、十干の「丙」と十二支の「午」を組み合わせたものです。
十二支の午は七番目、十干の丙は三番目です。十干と十二支を順番に組み合わせていくと、六十年で一巡します。そのため、丙午も六十年に一度めぐってきます。
丙午が特別な年と考えられるようになったのは、陰陽五行説と結び付いたためです。丙は「陽の火」、午も「火」に配当されることから、丙午は火の性質が重なる年とされました。
そこから、丙午と火災を結び付ける俗信が生まれます。江戸時代には「丙午の年には火事が多い」といった言い伝えが広まり、丙午は警戒される年になっていきました。
さらに、丙午は女性にまつわる俗信とも結び付きます。丙午に生まれた女性は気性が激しく、夫を食い潰し、家庭を滅ぼすといった言い伝えです。
この俗信を語るとき、八百屋お七の物語も外せません。
八百屋お七は、江戸時代に実在したとされる女性です。火事をきっかけとした恋愛事件で知られ、井原西鶴の『好色五人女』など、江戸時代の文学作品にも取り上げられました。その物語の中で、お七は丙午生まれとして描かれています。
ただし、お七が実際に丙午生まれだったことを示す確かな史料はありません。丙午と火、そして気性の激しい女性というイメージがすでに存在し、そこに八百屋お七の物語が重ねられたと考えられます。
こうして丙午には、火災だけでなく、女性の性格や結婚生活にまつわる俗信まで結び付いていきました。
1966年、この六十年に一度の年回りが、日本の出生数を大きく変えることになります。
なぜ丙午の出産は避けられたのか
1966年の出生数は約136万人。前年の約183万人から約46万人も減少しました。
これほど大きな変化が起きた理由の一つが、丙午を避けて出産時期をずらす人が多かったことです。
ただし、丙午そのものが突然1966年に信じられ始めたわけではありません。1906年にも丙午があり、その年の出生数も前後の年と比べて少なくなっています。
では、なぜ1966年には、その影響がこれほど大きく表れたのでしょうか。
当時の日本では、戦後の人口増加を背景に家族計画が広まり、夫婦が子どもの人数や出産時期を考えることが一般的になっていました。避妊や出産間隔についての知識も広まり、出産する時期を夫婦が選びやすくなっていたのです。
そこへ丙午の俗信が重なりました。
「丙午だけは避けよう」と考えれば、妊娠や出産の時期を少しずらすことができます。出産そのものを諦める必要はなく、翌年まで待てばいいからです。
実際、1967年の出生数は約194万人まで増えています。前年に落ち込んだ分を取り戻すような増加で、1966年に出産するはずだった人の一部が、翌年に出産したことをうかがわせます。
当時は新聞やテレビも広く普及していました。丙午の俗信は地域の言い伝えだけでなく、全国規模で共有される情報になっていました。
こうして、古くからあった丙午の俗信と、出産時期を選べるようになった社会環境が重なり、結果、六十年に一度の年回りが、出生数の大きな変動として統計に現れたのです。
六十年に一度の迷信が残したもの
江戸時代から語り継がれてきた丙午の俗信は、約300年を経ても消えてはいませんでした。
前回の丙午にあたる1906年生まれの女性が成人した1920年代には、結婚で不利益を受けたり、自殺したりしたという記事が新聞に掲載されました。こうした報道が、「丙午の女性は不幸になる」というイメージを次の世代へ伝えることになりました。
1966年には、戦後の人口増加に対する家族計画や、避妊の奨励などによる社会教育が広まっていました。出産する時期を調整できるようになった社会に、丙午をめぐる古い俗信と新聞やテレビの報道が重なります。報道が過剰な燃料を注いだことで、「丙午を避ける」という判断が実際の出産時期にまで影響することになりました。
誰かが意図して人々を動かしたわけではありません。それぞれが「丙午は避けたほうがいい」と判断した結果、出生数そのものが大きく変化したのです。
これは一種の「コントロール失調」とも言えるでしょう。
人の意図を離れて事態だけが一人歩きし、個々の判断が積み重なった結果、社会全体が同じ方向へ動いてしまった。
そこには、ある種の「呪詛」に似たものがあります。
丙午そのものに、人の運命や出生を左右する力があったわけではありません。人々がその意味を信じ、その信念に従って行動したことで、古い迷信が現実の社会現象になりました。
オカルトを楽しむということは、すべてを信じ込むことでも、すべてを否定することでもありません。伝承は伝承として知り、事実は事実として確かめ、その距離感を保ったうえで楽しむことです。
丙午という古い年回りが残したのは、迷信の力を証明する話ではありません。
人間が信じたものは、人間の行動を変える。
そして、その行動が積み重なれば、迷信でさえ社会を動かすことがある。
1966年の丙午は、そのことを人口統計の中に残した事例だったのです。
※画像はイメージです。


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