日本にとっての第二次世界大戦は、アメリカから太平洋戦争(パシフィック・ウォー)と呼ばれ、こちらの名称の方が浸透している。
広大な太平洋戦争における日本とアメリカとの戦いは、主として両国海軍による航空母艦を中核戦力とした空母機動部隊同士の激突の印象が強く、日本側からは開戦劈頭の所謂ゼロ戦などの戦闘機の活躍が多く語られている。
そうした中で陸軍はと言えば、日本が占拠していた島々をアメリカ軍の攻勢によって次々と奪回され、そもそも海軍国として名高かった点からも、アメリカと互する陸上兵器はそこまで多くは無い印象がある。
しかしそうした太平戦争時の大日本帝国陸軍の装備の中でも、敵であるアメリカ軍に恐れられた兵器が少なからず存在し、今日的にはその与えた影響は非常に大きかったと振り返られているものもある。
それが今回取り上げて見たいと思う八九式重擲弾筒であり、その優秀な性能はアメリカ軍の兵士が鹵獲して、好んで使用したと伝えられる程、歴史的に見ても秀でていた事が窺えるものと言えそうだ。
八九式重擲弾筒の開発の流れ
元来擲弾とは主として歩兵が投擲攻撃を行う爆発物の事を指していたが、後に手で投げるこうした種類の兵器が手榴弾と呼ばれるようになると、専用の発射機を持ちいた兵器を指す名称となった。
英語では擲弾はグレネードと呼ばれており、その起こりは17世紀のイギリスにおいて黒色火薬を鉄のボール状の容器に入れ、導火線に点火して相手側に投擲する手法で戦闘に用いたとされている。
大日本帝国陸軍では太平洋戦争でも主力小銃の座を担った三八式歩兵銃を明治38年に正式採用し、当初は同銃の先端に取り付けて運用する擲弾の開発が模索されるも実現に至らず、専用の発射機へと変化する。
そこで生み出されたのが大正10年に仮採用された十年式擲弾筒であり、全長525mm、重量2.6kgで50mm口径の滑腔砲身から、十年式若しくは九一手榴弾を最大で175mの距離まで打ち出す事が出来た。
人力で手榴弾を投擲する事と比すれば十年式擲弾筒のこの射程距離は遥かに上回る性能とは言えたものの、命中精度は極めて低く、コンセプトとして歩兵が携帯可能な兵器と言う事の方が重要だった。
そこで十年式擲弾筒の課題を認識して開発されたのが八九式重擲弾筒であり、実際に採用されたのは1932年で、ここから太平洋戦争敗戦の1945年までの13年間で、凡そ120,000丁もの生産が実施された。
八九式重擲弾筒の仕様とスペック
八九式重擲弾筒は全長610mm、重量4.7kgで、十年式擲弾と同様に50mm口径ではありつつも砲身は滑腔砲からライフリングが施されたものに変更され、専用の八九式榴弾であれば最大で670mもの射程距離を誇った。
また十年式若しくは九一手榴弾を用いる場合でもその市最大射程距離は200m程とされ、僅かながらその場合でも十年式擲弾筒等を上回っており、歩兵が携帯可能な兵器の火力としては頼りになった事が窺える。
八九式重擲弾筒は十年式擲弾筒を若干大型化した兵器と考えて良いが、最大の変更点は分解せずに携行が可能となった点で、この事により実際の運用上ではより迅速な使用が行えた事は想像に難くない。
主として八九式重擲弾筒は3つの部品で構成されており、50mmの砲身とそれを支える支柱、そしてその支柱の先にはT字型の台座が付けられており、この台座部分を地面に押し当てて発射する事になる。
アメリカ軍ではこの八九式重擲弾筒を「ニー・モーター」と呼んでいたが、ここで言うニーとはすなわち膝の事であり、T字型の台座部分を兵士が自分の大腿部に当て、肩膝をついた姿勢で発射すると誤認していた事に端を発する。
実際にはそのような運用を行った場合、発射時の反動で大腿部を痛めてしまうため、アメリカ軍は鹵獲した八九式重擲弾筒の使用に対して、そうした運用を行わない事を注意喚起していた事が記録にも残されている。
八九式重擲弾筒の実際の運用や威力について
八九式重擲弾筒を運用する場合の標準の形態は、2名一組で行う事が前提となっており、1名が弾薬を装填する担当、もう一人が八九式重擲弾筒を構えて照準と発射を担当する事が推奨されていた。
但し大日本帝国陸軍の擲弾筒は、3名を一組としそれを3つ合わせたもの、つまり3門の擲弾筒を9名で運用、これに分隊長1名とする編成が最小の単位であり、1名が最大で18発、3名で合計54発の弾薬を携行して運用された。
八九式重擲弾筒で用いられた八九式榴弾は総重量は1発が800g(内炸薬量は150g)であり、1名が運搬するのは18発ならば合計で14.4kgもの重さとなり、決して容易に取り回しが利くと言う重さとは言い難い。
軽機関銃や重機関銃でもそうであるように、八九式重擲弾筒も効率面を除けば兵士1名でも運用が可能な兵器であるため、実際の戦闘ではそうした状況下に何らかの理由で陥っても使用されたと思われる。
八九式榴弾の炸薬量は150gである事は前述したが、これは十年式若しくは九一手榴弾等が同50gであった事に比例して破壊力もその3倍であったと目され、飛距離も含めて有効な兵器だった事は間違いない。
また当初は最大で約670mとされた八九式榴弾の最大射程距離だが、後に登場した有翼型では更にこれが約800mまで延伸され、通常の手榴弾よりも遥かに大きな炸裂音を発した為、戦場ではその音による威圧効果も高かったとされている。
八九式重擲弾筒の実戦におけるアメリカ軍の記録
八九式重擲弾筒を日本軍が有効に活用した戦いとして語り継がれているのは、凄惨な地上戦として有名な1945年5月に沖縄本島で生起したシュガーローフの戦いであり、その代表的な例として挙げる事が出来る。
大挙して沖縄本島への上陸作戦を敢行したアメリカ軍に対して、日本軍は各地で防衛戦闘を敢行したが、特にこのシュガーローフの戦いにおいては日本軍がアメリカ軍の機関銃分隊への抵抗に八九式重擲弾筒を用いて効果を発揮したとされる。
存在位置を日本軍に特定された後、迅速な移動を行えなかったアメリカ軍の機関銃分隊は、八九式重擲弾筒の攻撃によって甚大な被害を被ったと記録が残されており、火力に乏しい日本軍の兵器の中では稀有な評価だと言える。
八九式重擲弾筒は現在のグレネード・ランチャーにも通ずる特性を持った個人携帯型の兵器との見方もあるが、構造や原理的は迫撃砲を最低1名でも運用できるサイズに収めた兵器と見る方が実情には近いかも知れない。
太平洋戦争時の日本軍に行ける八九式重擲弾筒の意義
太平洋戦争においては大日本帝国陸軍は、太平洋の島々や東南アジアの各地でアメリカ軍やイギリス軍との戦闘を行ったが、既に開戦の初期段階からそれらの分析では部隊の持つ火力は大きく劣ると判断されていた。
そうした敵側の指摘を待つまでもなく大日本帝国陸軍自身もその傾向は認識しており、攻勢を行う際にもそれを補うべく夜襲等の奇襲攻撃や、敵軍を包囲する事を目的とした戦術が主として用いられてきた側面が強い。
純然たる海軍国であり決して陸軍国では無かった日本は、自らの陸軍が装備する火力が米英軍に対して劣勢である事は承知しており、その欠点を補う戦術で対抗しようとした事は間違いない。
しかしそうした大日本帝国陸軍において、太平洋戦争を含めた第二次世界大戦時に射程距離・威力共に世界的な水準で見ても傑出した八九式重擲弾筒が生み出された事は、歴史の皮肉とすら言えるだろう。
featured image:シリーズ1億人の昭和史 『日本の戦史4』 (毎日新聞社 昭和54年発行) 160頁, Public domain, via Wikimedia Commons
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