幕末の日本で最大の門弟を抱えた剣術流派 北辰一刀流

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近年は日本史の定説のひとつ、明治維新の影の立役者として幕末の世を駆け抜けた英雄、その代表のように考えられて来た坂本龍馬を歴史の教科書にどのように記述するか、また載せないのかなど見直しの機運も高まっている。
これまでに坂本龍馬の功績とされてきたものには、薩長同盟の締結や土佐藩による大政奉還の幕府への建白への関与等が挙げられてきた、何れも後年の司馬遼太郎を筆頭とする歴史小説家らの創作説が有力になりつつなる事が原因のようだ。

元々実際に歴史学を生業とする学者の方々の間では、史実の坂本龍馬と司馬遼太郎が描いた坂本竜馬は、その名前の漢字を敢えて変更している点からも、その事績とされるものもフィクションだと考える説が多かったように思える。
そんな日本史の見直しの渦中にある坂本龍馬であるが、史実の彼も幕末の江戸へ剣術修行に赴いた事は事実であり、北辰一刀流を教授する千葉定吉の桶町道場にて修練を行ったとされている。

今回は坂本龍馬その人ではなく、彼が激動の幕末に剣術修行に取り組んだ剣術流派、北辰一刀流について及ばずながら紹介をしてみたいと思う。

目次

北辰一刀流の創始者 千葉周作

日本の剣術の中で著名な存在と言えば、剣聖と称された上泉守秀綱の創始した「神陰流」、塚原卜伝の創始した「卜伝流」、柳生石舟斎の創始した「柳生新陰流」などが多くの人々の頭に最初に浮かぶのではないだろうか。
これら著名な「神陰流」、「卜伝流」、「柳生新陰流」などは何れも長く続いた戦国時代に生み出された剣術流派であるが、「北辰一刀流」は幕末に千葉周作によって創始された比較的新しい流派である。
千葉周作の生年は1793年若しくは1794年とされているが、父親は千葉忠左衛門で千葉家の持つ「北辰夢想流」の遣い手であり、この剣術を糧に家名の再興を成したいと考えていたと言われている。

千葉氏自体は、関東武者としてその名を知られた板東八平氏の一角の家柄ではあったが、江戸期には困窮した生活を送っており、忠左衛門は何とか「北辰夢想流」剣術を糧に御家の再興を成したいと希求していたと伝えられている。
そんな折、忠左衛門は5歳を迎えた次男の周作に非凡な剣術の才を見出し、「北辰夢想流」のを創始した縁戚の千葉吉之丞の住む現在の宮城県大崎市へ周作を連れて移住、本格的に剣術の修練を積ませた。

千葉周作は父の忠左衛門の見立て通りに「北辰夢想流」を極め、10年後に15歳となった時期には師事した千葉吉之丞をも超える腕前に成長、更なる上達を期して現在の千葉県の松戸にあった小野派一刀流の門戸を叩いた。
そこでは小野派一刀流の中西派を率いる浅利義信の薫陶を受け、千葉周作は期待通りにその流派をも極め、浅利義信の娘を娶って婿入りし、浅利又一良を名乗り中西派道場の主の座を掴んだ。

浅利又一良となり中西派道場主にまで至ったその剣名は、既に江戸にまで聞こえる程となったが、彼はそこで満足せず、これまでに習得した北辰夢想流と小野派一刀流中西派を融合した独自の剣術を立ち上げる。
これが北辰一刀流の創始であり、千葉周作は師で且つ義父である浅利義信の名誉を損なう事のないよう、自らの名を戻し独立した新規の剣術流派として北関東を中心に門弟を獲得、1822年には遂に江戸に道場を構えた。
千葉周作は江戸で品川に玄武館という道場を興し、後日にこれを神田於玉ヶ池後に移したが、こらは幕末期に日本で最多の門弟を有する道場となり、北辰一刀流の名は日本で最大の流派と同義となった。

北辰一刀流の特徴

千葉周作が北辰一刀流を創始するに至った最大のポイントは、自らがそれまでに会得した北辰夢想流と小野派一刀流中西派の教えを超えて、突き詰めれば振るう剣の速度を限界まで高めると言う点にあったと見做されている。
北辰一刀流における見た目の最大の特徴は、対峙する相手に向けて剣を構えた時に、自らの剣の切っ先を微妙に振動させるような動きを取る事が有名だが、これも相手に対する反応の速度を上げる目的があると言われている。

千葉周作本人が自らの剣の目指すあり方を「それ剣は瞬速、心、気、力の一致」だと語っており、これは相手と対峙した際に瞬きや呼吸をする一瞬の内で自身の剣の速度を最大化する事を端的に示した言葉とされている。
この言葉は自身の剣の速度を最大化する為に、心力と気力と膂力の3つの要素を完全に合致させる事を説いたものと解釈されており、剣の運びを68種類に分類し、それを繰り出す為の修練の合理化が要と目されている。

北辰一刀流ではこの剣の運びの68種類を会得させる為に、
防具は用いずに木刀による型の稽古でその技を体に覚え込ませる、
竹刀を用いて剣の速度を極限まで高めると言う大きく2つの修練を行わせた。

こうした北辰一刀流の在り方を見ると、北辰夢想流と小野派一刀流中西派の折衷とされる同流の中でも、後者の剣術が重視されていた事が窺え、仮に相手が先に動いてもそれを超える速度で対応しようとしたものと思える。
凡そ260余年も続いた江戸幕府の末期の幕末の世にあって、世間が再び騒乱の時代に戻るかも知れないという危機感から、このような実戦向け剣術の北辰一刀流が多くの人々に受け入れられた素地があったのだろう。

北辰一刀流と他の剣術との比較

北辰一刀流が他の名だたる剣術流派を抑えて、確実に最強の剣術であったのか否かという事に関しては正直明言する事は難しく、他の流派も含めて遣い手の個々人の能力に依存すると言うのが実態ではないだろうか。

柳生石舟斎の創始した「柳生新陰流」から分派し、その認可状は与えられなかったとは言え、彼の4男で徳川家の兵法指南役となった柳生宗矩の江戸柳生を始め、各地の大名のお抱えの流派は基本的に他流試合を禁じられていた。
従って全ての流派の者達が他流試合を自由に行って、その最強の座を証明すると言うような事績はほぼない為、如何なる剣術流派も自らが最強だと証明できる機会はなく、北辰一刀流もその例に漏れない。

但し幕末の江戸にあっては、千葉周作の北辰一刀流の玄武館、斎藤弥九郎の神道無念流の練兵館、桃井春蔵の鏡新明智流の士学館の3つが隆盛を極めたが、門弟は圧倒的に北辰一刀流が多数を集めていた。
これは千葉周作の北辰一刀流が、その時代に最も実戦的な剣術として人々から認識されていた一端を示すのもと思われ、玄武館の門弟には清川八郎や山岡鉄舟があり、坂本龍馬は分派の千葉周作の弟の定吉の桶町千葉道場の門弟である。

結果的に商売上手でもあった北辰一刀流

北辰一刀流は、剣の運びを68種類と分類し、木刀による型の稽古と竹刀を用いた剣の速度の向上を神髄とした実戦的な剣術である事は前述した通りだが、こうした合理的な修練法とは別の側面も成功の理由だと考えられる。

それは北辰一刀流においては、こうした合理的な修練法で他の流派の半分の5年程で会得可能と言われた点や、目録の伝位を初目録・中目録免許・大目録皆伝の僅か3つに絞った点が大きかったと思われる。
北辰一刀流の源流の一つでもある小野派一刀流が8つの伝位を持ち、当時は伝位が上がった際には師を始めとする同門の人々皆に御礼を渡す習慣があった為、貧しい門弟が段位を上げる事には金銭的な負担も大きかった。

これを僅か3つの段位とした北辰一刀流は、それも手伝って日本で最大の門弟を獲得したとも言え、それが目的であったかどうかは別としても、ある種この当時に商売上手だったと言えるかも知れない。

千葉周作と聞いて個人的に思い出す作品

千葉周作はラジオ・ドラマ、TVドラマ、映画、アニメ化もされた人気漫画「赤堂鈴之助」のモデルとして、昭和の時代を代表する人気作品のモデルとして使用された事は年配者にとっては周知の事実だろう。
しかし個人的には週刊少年ジャンプに連載され、作者である江口寿史氏の出世作となった「すすめ!!パイレーツ」に登場する、プロ野球チーム・千葉パイレーツの不動の4番打者・千葉修作が印象に残っている。

いずれにせよ、今のお若い方はご存じではないと思うので、一度ネット検索等で見て頂ければ、在りし日の昭和の雰囲気を味わっていただけるのではないと思えてならない。

※画像はイメージです。

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