大和の真価は戦後にこそ発揮された
武蔵の半分
戦艦大和は呉海軍工廠、武蔵は三菱長崎造船所で建造された。
大和は昭和12年11月4日起工、昭和16年12月16日就役、武蔵は昭和13年3月29日起工、昭和17年8月5日就役と、その建造は平行して行われた。
その建造期間は、大和は約4年、武蔵が約4年4ヶ月と大和が4ヶ月前後も短くなっている。
さらには船体の建造において、その作業量を、計算できる数字に置き換えた「工数」で比較すると大和は武蔵の約半分の総工数だった。
大和と武蔵は微小な差異はあるものの竣工時は全くの同型艦である。
にもかかわらず建造効率において大幅な差が生じていた。
そして、その違いはその後の日本にとって非常に重要な意味を持っていたのである
工数
ある作業を完成するために必要な量を表す数値のことを「工数」という。
例えば、1人が1時間で完成する作業は1人時間の工数であり、工数が3人時間の作業とは、1人が3時間、または3人が1時間で完成できる作業となる。
さらに1人で2日かかる作業の工数は2人日、5人が2か月で完成する作業の工数は10人月と表す。
工数により単なる経験則によらない作業状況の把握ができ、科学的な工数管理によって作業の無駄が最小限に抑えられ、効率的な建造計画立案が可能になる。
より早くより安く
海軍技術大佐・西島亮二は大和建造の船殻主任として、呉工廠で数千人の技術者・工員を指揮することになった。
西島の任務は、世界に類のない巨大戦艦を遅延なく予算内に完成させることだった。
建造途中に日米開戦があり、情勢は世界最大の戦艦の早期誕生を要求した。
しかも戦艦としての性能保持とコスト削減という、相反する課題の達成も西島に課せられた至上命題だった。
西島は当時世界で最先端だった各種の造船技術を積極的に取り入れ、建造材料・部品の標準化・統一化を推進した。
同時に徹底した工数管理による生産管理を行う。
それは技術者や工員の勘や慣習が幅を利かしていた造船世界の大改革でもあった。
当然、上層部から現場にわたる各方面からの反発は強かった。
しかし西島は自身の方針を貫いた。そしてその結果が同型艦武蔵の半分の総工数だったのだ。
戦後
戦後、西島は大和建造で確立した造船方法と生産管理を、疲弊した国内造船業界に教授した。
その結果、日本の造船は安く早く良質の船舶を供給し、世界の造船王国に伸し上がった。
その血流は造船界のみならず各製造業にも流入して、効率的な製造で安価良質な製品を生み出していった。
それは製造業にとどまらず、その他の産業における各種作業にも応用され、省力化効率化の手法が日本の産業界に定着していった。
やがて日本の産業はJapan as No.1と世界から称賛されるに至る。
戦艦大和はそのルーツなのである。
※画像はイメージです。


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