幕末、土佐の「人斬り」岡田以蔵

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日本の長い歴史の中でも、全国各地に群雄が割拠して覇を競った戦国時代と、徳川幕府の末期から明治新政府に為政者が変わった幕末とは、その人気を二分する時代である事に疑問の余地はないだろう。
但し戦国時代を室町幕府の末期の応仁の乱が勃発した1467年から、戦国の覇者として織田信長が足利義昭を室町幕府の将軍に据え上洛を果たした1568年とする、その期間は実に1世紀を超す長さである。

これに比して幕末とは、アメリカのペリー提督が黒船を率いて来航した1853年から、戊辰戦争が終わった1869年くらいまでの期間を指すのが一般的で、その期間は凡そ20年にも満たず、かなり短かった。
それでも幕末は、当時長年に渡って日本の支配を行ってきた徳川幕府が倒れ、明治新政府と言う日本が近代国家として歩み出す激動の時代となった事から、そのインパクトにおいて他の時代よりも関心が高いように思う。

そんな幕末期には旧勢力である徳川幕府に仕えた人物や、以後新政権の樹立の中心となる薩摩や長州の人物達が高名だが、その過程で命を落とした維新志士達も数多く、政治劇としての興味も尽きない。
そんな幕末期にあって、徳川幕府側の人物達に対する暗殺は多かったが、後年はその中でも特に多くのそれらの暗殺を手掛けた者達の中で「幕末の四大人斬り」と呼ばれる4名が殊に注目を集めている感がある。

「幕末の四大人斬り」とは、薩摩の田中新兵衛・中村半次郎(後の桐野利秋)、肥後の河上彦斎、そして土佐の岡田以蔵の4名を指すが、近年はスマホのゲームの隆盛で特に岡田以蔵の人気が高いようだ。

目次

岡田以蔵の生い立ちと剣術修行

土佐の岡田以蔵は、前述したようにスマホの人気ゲーム「Fate/GrandOrder」のキャラとしてとみに注目を集め、また2010年に放映されたNHK大河ドラマ「龍馬伝」では人気俳優の佐藤健氏が演じた事で知名度を挙げたと思える。
史実における岡田以蔵は、土佐の郷士(下級武士)である岡田義平の嫡男として1838年2月に生を受け、後に土佐勤皇党を組織する武市半平太と邂逅し、共に当時の土佐一の件の遣い手とされた中西派一刀流の麻田直養の道場で剣を学んだ。

その後1856年9月から凡そ1年、岡田以蔵は武市半平太と共に土佐藩の許しを得て江戸での剣術修行に挑み、当時の江戸で三大道場の一つとされていた桃井春蔵の営む士学館においてその流儀である鏡心明智流を学んだ。
岡田以蔵はこの士学館での修行で鏡心明智流の中伝を得たとも言われているが、因みに武市半平太は桃井春蔵にその剣術及び人格を見込まれて免許皆伝を許され、更に士学館の塾頭に推されるなど、指導者の器を開花させた。

また土佐を代表する維新志士である坂本龍馬も、この同じ時期に江戸に剣術修行に出ており、北辰一刀流の千葉定吉の桶町千葉道場で学んでいた事から、少なくともこの時に岡田以蔵とも知己を得ていたと思われる。
1858年9月には武市半平太らと共に土佐に戻った岡田以蔵だったが、3年後の1860年8月からは再び武市半平太らに同行して中国地方や九州地方で剣術修行に勤しみ、彼らと別れた後には豊後の岡藩で直指流の修行も行った。

人斬りの異名、当時は「天誅の名人」とされた岡田以蔵

やがて1861年8月には武市半平太が土佐勤皇党を旗揚げした為、岡田以蔵もその一員となり、当時の尊王攘夷の時世に乗って土佐藩中で地位を上げた武市半平太と共に、1862年6月には土佐藩の参勤交代の衛士となり、初の上洛を果たす。
こうして上洛した岡田以蔵は、以後京において武市半平太の指示の元、土佐勤皇党の政敵である土佐藩下目付の井上佐市郎の暗殺に従事した事を皮切りに、彼らが天誅と呼んだ数々の暗殺行為に手を染めた。

以後の岡田以蔵は徳川幕府の京都町奉行の配下の本間精一郎、森孫六、大川原重蔵、渡辺金三郎、上田助之丞などの人物を同地において立て続けに暗殺、薩摩の田中新兵衛と並び人斬りとして名を馳せた。
但し実際には当時は「幕末の四大人斬り」を始め、人斬りと言う表現自体が使われてはおらず、後年の小説等の創作物を通して広まった異名であるとされ、仲間内では「天誅の名人」と称されていたと言う。

その後、岡田以蔵は1862年10月から12月にかけ、徳川幕府に攘夷の実行を促すべく朝廷の副勅使となった姉小路公知の護衛を務めて江戸に上ったが、翌1863年1月には土佐藩を脱藩して江戸にいた長州藩の高杉晋作の庇護下に身を置いた。

土佐藩士に捕縛され非業の死を遂げた岡田以蔵

そして同年3月に高杉晋助が上洛するとこれに同行して再び京へと戻ったが、酒色に浸り武市半平太らの土佐勤皇党の仲間とも次第に離れ、一時期は坂本龍馬の仲介でかつての政敵であった勝海舟の護衛を行ったとされる。
しかし岡田以蔵は程なくして勝海舟の元からも離れて、土井鉄蔵と言う偽名で博徒を装い京に潜伏を続けた後、1864年2月に徳川幕府の役人に捉えられ同年5月に京を追放となり、遂には土佐藩士に捕縛され本元へと送致された。

この時の土佐藩は既に武市半平太ら土佐勤皇党の構成員のそのほどんどを捕縛し弾圧を行っており、岡田以蔵もそれまでの数々の暗殺に関与したかどで、その実行の生き証人として罪状の自白を強要された。
岡田以蔵は確かに土佐藩士らからの拷問に晒されたが、武市半平太らの土佐勤皇党の他の構成員の言によれば、女性でも耐えたと言われるような拷問ですぐに音を上げ、自身が関与した罪状を簡単に自白したと言う。

この岡田以蔵の自白によって、武市半平太を含む土佐勤皇党の多くの構成員が土佐藩の思惑通りに処刑される事となり、1865年11月に岡田以蔵本人も打ち首となり、28年の短い生涯を終えた。

剣客としての岡田以蔵の実力は?

こうして土佐勤皇党の弾圧を進めた当時の土佐藩、その実権を掌握していた前藩主・山内容堂らの行動によって、最後は処刑という非業の死を迎えた岡田以蔵だが、剣客としての実力には様々な見方がある。

岡田以蔵の剣術の経歴を辿れば、前述したように中西派一刀流の麻田直養、鏡心明智流の桃井春蔵、豊後の岡藩の直指流と言った一派で修業を行っており、その時代でも一定以上の実力を身に付けていたとは思われる。
しかしその名を知らしめた最初の事案となった井上佐市郎の件を始め、岡田以蔵が人斬りとして名を馳せた京での活動は、対象者を自身を含む複数で闇討ちすると言う暗殺が主であり、互いが正対して斬り合ったとは言えないものが多い。

一度坂本龍馬の仲介で勝海舟の護衛を行った際には、襲ってきた複数の刺客の退散させたと言う例もある為、それなりの腕前を持っていた事は事実だろうが、幕末で上位に入る程ではないと個人的には感じる。
京の治安維持と自らの地位の向上を企図して攘夷志士らを多数切った新選組も、集団で対象者を囲んで討ち取る戦法だったとは言うものの、池田屋事件等でも明らかなように数に勝る相手に対しても戦果を挙げている。
この点を見ても仮に新選組の名だたる隊士と岡田以蔵が一対一で対峙した場合、後者が勝利を収める事は非常に困難だったのではないか、と言うのが偽らざる感想である。

岡田以蔵が近年とみに人気を博しているのは、冒頭でも述べたようにスマホの人気ゲーム「Fate/GrandOrder」やNHK大河ドラマ「龍馬伝」で佐藤健氏が演じた影響が大きいと思われる。
個人的には人気漫画であった武田鉄矢氏原作、小山ゆう氏作画の「お〜い!竜馬」における、義侠心に厚く、お調子者であった岡田以蔵のキャラクターが非常に印象的で、昨今の人気には少し違和感を禁じ得ない。

※画像はイメージです。

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