旧帝国陸軍のトンデモ兵器!空飛ぶ特三号戦車

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第二次世界大戦と言えば、1939年9月のナチス・ドイツのポーランド侵攻に端を発し、大日本帝国が敗戦を迎えた1945年8月までの凡そ6年間に渡って数多の国々が参戦した、人類史上最大規模の戦争である。
世界の国々は主として日本・ドイツ・イタリアを中心とする枢軸国と、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連などを中心とする連合国とに分かれ、中立を保った国もあったものの、大半は何れかの陣営に与して戦った。

結果は皆様もよくご存じの通り連合国側の勝利となり、この凄惨な戦争を経た経験から勝者の連合国側は国際連合を発足させ、現在でもアメリカ・イギリス・フランス・中国・ロシアの5ケ国がそのトップの常任理事国として君臨している。
しかし2024年9月現在、今も続くロシア・ウクライナ戦争が継続中である事を見ても、第二次世界大戦後の冷戦構造が急ソ連の崩壊で終了したかと思えたのも束の間、世界に紛争の火種は消えていない。

昨今の国際情勢は一先ず置いておくとして、第二次世界大戦に話を戻せば、主要参戦国は多くの国々が自国の存亡をかけた総力戦としてこの戦いに臨み、其れ故に多くの兵器開発が同時並行で行われた。
そうした兵器の中では無論実戦で戦果を挙げたものも多いが、今回ここで紹介させて頂く大日本帝国陸軍が開発を目指した特三号戦車は、実用化には至らなかった所謂トンデモ兵器である。

目次

大日本帝国陸軍が特三号戦車を開発を企図した理由

当時の大日本帝国陸軍は、兵士やそれらが使用する武器・弾薬等を輸送する為の軍事用のグライダー、つまりそれ自体は推進力を持たず、母機によって空輸され、目標近くで切り離すものを研究していた。
しかし1937年7月に中国大陸に於いて盧溝橋事が起こり、中華民国との間の大規模な戦闘となる支那事変に発展すると、未だ実用化に時間を要すると考えられた軍事用のグライダーの開発は優先されず、一旦は中止とされる。

1939年9月のナチス・ドイツによるポーランド侵攻以後、ヨーロッパ戦線では兵員を輸送する為の軍事用のグライダーの使用に一定の効果が見受けられ、これを受けて大日本帝国陸軍でもその研究が再開された。
大日本帝国陸軍では、兵員の輸送用のグライダー開発計画を「ク1」、戦車の輸送用のグライダーの開発を「ク6」と名付け、この「ク6」が特三号戦車であり、当時の前田航研工業社の案をベースに軍と三菱重工業社が共同での開発に乗り出す。
これらの研究開発に合わせ1943年後半には、大日本帝国陸軍に初めて軍事用のグライダーを装備する部隊が滑空歩兵連隊として編成され、従来より装備する火力を大幅に増給した部隊となった。

それまでの大大日本帝国陸軍の空挺部隊の装備と言えば、その兵士は小銃や機関銃、手榴弾等の個人で傾向が可能な範囲の兵器を運用するのみだったが、重火器を輸送するグライダーとして四式特殊輸送機が開発された事でその状況を変えた。
この四式特殊輸送機と名付けられた軍用のグライダーは、四一式及び九四式山砲を輸送する事が可能で、空挺部隊の兵士達にそれまでの銃火器とは比較にならない大きな火力を与える事に成功したと言える。
但しこの四式特殊輸送機の積載能力を持ってしても、自走が可能で高い防御力と火力を併せ持つ戦車を輸送する事は出来ず、第二次世界大戦末期の1944年に既存の九八式軽戦車を土台に軽量化を施した戦車の開発に乗り出した。

特三号戦車の概要

こうして開始された特三号戦車の開発計画であるが、その土台となった既存の九八式軽戦車とは、全長が4.11m、全幅が2.12m、全高が1.82m、重量が全備重量で約7.2t程の規模を持ち、1939年9月に試作を終えた軽戦車である。
この車体に兵装としては主砲に一〇〇式37mm戦車砲を1門、副武装に九七式7.7mm機関銃1丁を主砲の同軸に備え、装甲厚は砲塔分の正面・側面・後面が全て16mm、車体部は正面が16mm、側面が12mmとなっていた。

機関部には空冷直列6気筒のディーゼル機関を搭載し、最大で出力130馬力を発生、速度は時速50kmから55km、航続距離は凡そ300km、乗組員は車長と操縦手と砲手の3名と言う仕様となっている。
対して九八式軽戦車を土台とした特三号戦車は、全長が4.07m、全幅が1.44メートル、全高が1.89mとなり、重量は2.9tまで軽量化され、主砲は同様の一〇〇式37mm戦車砲を1門、これは火焔発射機1基への変換も可能とされた。

副武装も同様に主砲と同軸の九七式7.7mm機関銃1丁又はこれも未登載とする仕様もあり、機関部は空冷直列4気筒のガソリン・エンジンに変更され、最大で50馬力を発揮、乗員も車長が砲手や機銃手も兼ね、操縦手との2名とされた。
特三号戦車の装甲厚等に関しては詳細なデータを見つけ出す事が出来なかったが、元の九八式軽戦車が約7.2t程の重量だったものを、半分以下の2.9t程に軽量化している事からも推して知るべきと言った感が強い。
特三号戦車はそれ自体をグライダーとすべく、全幅で22.0mの長さの主翼が取り付けられ、離着陸時に本体の履帯では抵抗が大き過ぎる為、水上機のフロートのような形でソリが装着された。

こうした自身をグライダーとするための軽量化や、主翼、ソリといった装備を施された特三号戦車ではあったが、母機から切り離された後の滑空飛行が不安定な上、そのそも大戦末期で日本は制空権も航空優勢も既に喪失していた。
その為、連合軍の戦闘機等に母機共々撃墜される危険性が非常に高く、日々確実に劣勢が色濃くなってきていた日本は、こうした不確定な兵器の開発に貴重なリソースを割けないとの判断を下し、実用化されずに開発は中止された。

似たような設計思想で開発された

特三号戦車と似たような設計思想で開発されたソ連のアントノフA-40、更に冷戦期には空挺車輛としてBMD-1歩兵戦闘車を実用化

大日本帝国陸軍ではこうして特三号戦車は、アイデア倒れで実用化には漕ぎつけずに開発が中止されたが、歴然たる陸軍国であるソ連でも同様のコンセプトを持つ「空飛ぶ戦車」・アントノフA-40が企画された。
先ずソ連では1931年に正式採用されていた豆洗車であるT-27を、大型爆撃機の胴体の下に取り付けて、通常の滑走路に着陸させた後に、T-27を切り離して運用する事を「空飛ぶ戦車」として目指した。

その後ソ連は1941年秋にT-60軽戦車を正式採用、この戦車は全長が4.10m、全幅が2.35m、全高が1.75m、で重量がは最大で約5.8t、主砲には20mm戦車砲1門、副武装には7.62mm機関銃1丁を備え、装甲厚は7-20mmであった。
機関部には直列6気筒4ストローク水冷ガソリン・エンジンを搭載し、最大で70馬力、時速約44kmを発揮可能で、乗組員は2元より2名だが、寸法的には日本の九八式軽戦車にほど近い者であった事が見て取れる。
そして1942年、ソ連ではこのT-60軽戦車から兵装や弾薬類を降ろして軽量化し、木及び布製の大型の複葉型式の主翼と双尾翼を取り付けたグライダー・アントノフA-40を試作、同年9月に最初で最後の試験飛行を行う。

そこでアントノフA-40は何とか着陸に成功、大型の複葉型式の主翼と双尾翼を着陸後に外し、一応戦車として動いたとされるが、こうした運用に必要な大型航空機を割く余裕は当時のソ連にはなくやはり計画は中止された。
しかし第二次世界大戦後もソ連はこうした空挺部隊による戦闘車輛の展開方法を模索し続け、1970年代の中盤にはBMD-1歩兵戦闘車を開発、これは全長が5.4m、全幅が2.94m、全高が1.97m、重量が7.5t、乗員数は2名である。
このBMD-1歩兵戦闘車は、先に開発されたBMP-1歩兵戦闘車を小型・軽量化し輸送機から空中投下を行うべく、材質には軽量なアルミ合金が用いられているが、やはり防御面は小銃弾を防ぐ程度ではあった。

「空飛ぶ戦車」に思う事

今回見てきたように第二次世界大戦においては、日本では特三号戦車、ソ連ではアントノフA-40が「空飛ぶ戦車」と言うコンセプトの元、空挺部隊の火力及び防御力を高める事を目的に研究が成された。

しかし何れも実際の戦場で使用して一定以上の効果を期待する事は難しく、結局実用化は果たされないと言う経緯を辿った。最後に触れたように冷戦期の1970年代のソ連ではBMD-1歩兵戦闘車を実用化したが、実戦での戦果は大きくはない。

そもそも空挺部隊自体が、どうしても小銃や機関銃程度の銃火器の携行しか出来ない軽歩兵である為、昨今のロシア・ウクライナ戦争の初期のロシア軍によるアントノフ空港の襲撃も結果的には成功していない。
兵器としてのロマンはマニアにとっては感じる「空飛ぶ戦車」ではあるが、自爆ドローンを始めとする無人機が投入され、通常の戦車も甚大な損害を出している点から、その将来は明るくはないだろう。

featured image:Imperial Japanese Army, Public domain, via Wikimedia Commons

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