イラン戦争に伴う原油不足に対応するため、カルビーが菓子類のパッケージを白黒にするというニュースを目にした。
スーパーに行く時には気にしていたが、なかなか見つからず、先日ようやく白黒仕様のかっぱえびせんを見つけられた。
色が溢れる中では、かえって目立っていたが、全部が同じとなれば、これは随分と味気ない棚になるだろう。
中身が同じなら、色などいらないという言説もあるが、それもやや視野の狭い主張だ。
色はスピリチュアルなどのオカルトで言及される事も多い。
色を減らと、どのような影響が出るのだろうか。
色とは
色は、光が持つ特徴で決まる。
光は電磁波の1種で、「粒子(光子)が波打っている状態」だ。
人間が目に見えるのは、光のうちの一定の波長(波の幅)の「可視光」のみである。可視光を更に波長で細分化すると、それぞれが「色」の付いた光に見える。
色の違う様々な光を均等に混ぜていくと、最後には何の色も見えない白い光になる。
一方、絵の具や色素は、反射する光が特定のものに偏っているが故に、その光の色に見える。
このため、絵の具は色を混ぜるごとに、反射出来る色が減っていくため、全色を混ぜると最後には黒になる。
人間が進化で色の認識力を獲得した理由は、それが生存に有利だったからだろう。
人間は緑色に落ち着き、赤色に目を惹かれる。
これは、ジャングルの樹上生活をしていた人類が、猛禽類などの視線を遮り守ってくれる「木の葉」が多い枝で過ごし、赤や黄色は熟れた「果実」を見つけるのに役立った。
熟れた果実の色は、味の善し悪しだけでなく、未熟な果実が自衛の為に持つ有害物質のマーカーにもなる。これは植物側にとっても、繁殖可能になった果実のみが動かされる事になり、都合が良い。
無論、可視光も色も、平均的な人間に合わせたものであって、絶対ではない。
色覚に障害がある人は、判別が難しい色があるし、犬が赤色を識別出来ないというのは良く知られる話だ。
逆に、細かく色を見分けられる人や、可視光に含まれない波長の紫外線や赤外線を「見る」事が出来る生物もいる。
オカルトにおける色

では、オカルトで色はどのように語られているだろうか。
身近な例で色を扱うオカルトと言えば、風水などに用いられる五行思想だろう。
森羅万象が5つの元素から成り立つという考えで、元素は木・火・土・金・水。
それを表す色が、青・赤・黄・白・黒となり、風水の場合、色は象徴や概念ではなく、実際にその力を持つと考える。従って、部屋に「青」が多ければ、育ち伸びる「木」が克ち、それが表す成長などの要素が高まる。
一方「黒」が多ければ、生命の源たる「水」が克ち、生命力が高まり、療養などに丁度良い。
五行思想的な「元素」は、物質と現象を分離していない。
このため、色は核分裂を経ない状態でもエネルギー的要素を含む。故に、色だけで現象を起こせる道理だ。
ヨーロッパの方ではどうか。
古代ギリシアのアリストテレスは「色は光と闇、白と黒の間から生じる」と述べたというから、これは科学的な光を前提とした色の認識と同じだ。
古代エジプトでは、青が珍重され、カルシウム銅ケイ酸塩を用いたエジプシャンブルーが護符や装飾などに用いられた。青はナイル川を象徴する色として、生命を司るアメン神の肌色にも使われた。
この場合の使われ方は、象徴としてのもので、風水ほど色そのものの力を信じている訳ではなさそうだ。
もう少し時代が下り、アブラハムの宗教、旧約聖書やキリスト教の時代になると、黒を忌むべき色としている。
但し、時代が進むと清貧のイメージと結び付き、聖職者の服に用いられるなど、復権している。
中世まで進むと、キリスト教圏において、黄色をイスカリオテのユダと結びつけ、忌むべき色としている。
聖書に黄色とユダを結びつける文章はなく、後の宗教画家の都合で付いた色である可能性が高い。
宗教画の存在理由は、聖書を読めない者に聖書のエピソードを伝える事であり、人物は一目で分かるよう記号化される。黒は枠線、白は純潔の色、赤は贖罪の血の色、青は稀少な素材を使う高級色、と消去していった結果、黄色がユダに割り当てられたのではなかろうか。
ここにおいても、色は目印であり、色そのものにパワーがあるという話にはならない。
人をの生命を左右するほどのパワーを発揮した色と言えば、ビクトリア期の砒素を用いた緑色だが、これは単に化学物質の中毒で、オカルトは関係ない。
直接的なパワーを持つ色と言えば、H.P.ラブクラフトの「宇宙からの色」がある。
これは、宇宙生物と考えられるが、人間からは奇妙な「色」と認識される。接触した生物は、生命力と色彩を失い、精神にも異常を来し、やがて崩れ去る。
観察の都合上「色」としか言いようがないが、実体は存在する生物と考えられる。
これらの例から考えられるのは、色そのものが力を持つという可能性はとても薄いが、何らかの現象のマーカーになっている可能性はある、という事である。
当然、この場合の色は、それを見様見真似で人間が合成した色とは本質的に別物だ。
色はいつでもそこにある
だとして、例えばこの先、事態が悪化してインク原料が非常に入手困難になり、日常の色数が極めて制限された時、我々はどうするべきなのだろうか。
オカルトが実在する世界において、精神の作用は大きな力を持つ。
その世界の色とは一体、何をもって成立するものだろうか。
恐らく、客観的に定義出来る色素や成分、構造色である可能性は薄い。
観察者による「認識」が、最も大きな影響を与える筈だ。
この時、色の少なさによって不足するものは、色を認識する事で補えるのではなかろうか。
どんなに塗料が減ったところで、生物本来の色は失われない。草花の色、人の血色、日中を通じて変わる空の色、そういったものを辿れば、多数の色が補われる事に気付ける。
色に気が付く心の余裕、それが突破口になるのだ。
仮に全てのポテトチップスが白黒になったとしても、ピザポテトを開けば、黄色とオレンジの色が出る、さやえんどうを開ければ緑が、サッポロポテトは依然カラフルだ。そしてそれをつまむ指先は赤みがあり、爪はピンク、手首の血管は青い。
主観はコントロールしてこそだろう。
色は主観で如何様にもなる。
「バラ色の人生」を目指す時、バラが見つからないからといって絶望する事はない。
どこにだって色は見出せる。
その気構えが失われた時、宇宙からの色に喰われた者のように、崩れてしまうのだろう。


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