歌人として著名な藤原定家(ふじわらのていか)の三男である藤原為家(ふじわらのためいえ)の側室であり後家の時期もあった阿仏尼(あぶつに)と呼ばれた女性の訴訟について述べたいと思います。
鎌倉幕府第三代執権 北条泰時(やすとき)は、御成敗式目(ごせいばいしきもく)を制定しました。御成敗式目は貞永元年(西暦1232年)に制定されたことから、貞永式目(じょうえいしきもく)とも呼ばれています。
御成敗式目の制定により、鎌倉幕府の式目が、朝廷による法令であった公家法を超えて国の基本法になってゆきました。
北条泰時は、父であり鎌倉幕府第二代執権にもなった北条義時の長男として生まれました。
義時は、泰時の包容力のある人格や優れた能力を見抜き、第三代執権として推し、承久の乱において、全鎌倉軍を率いて朝廷側を撃破し鎌倉幕府を揺るぎないものにしました。
御成敗式目とお女性の相続権
泰時の母の出自は阿波局(あわのつぼね)と呼ばれているだけで不明なのです。
阿仏尼は、桓武平氏の出の平維盛の長男である平重貞の子孫である奥山度繁(おくやまのりしげ)の娘または養女といわれていますが、阿波局という呼名は色々の人を指している可能性があります。
泰時の母の実家を公けにすることに問題があったと考えられます。
私は前者のような雰囲気を何となく感じます。
泰時は、心の中に母への深い同情と愛情を有していたように感じます。そして、このことが、女性に対する心配りに通じていたのではないでしょうか。
それは、御成敗式目の女性の相続権についての定めにも表れているようです。
従来、父親が娘に対し領地などをいったん譲渡すると、娘の婚家先がその領地を敵対的に運用したりすることがあっても、譲渡した領地を取り返すことができません。そのため、父親は娘にも領地を分けたいと思っていても、なかなか踏み切れませんでした。
御成敗式目においては、上記のような場合に娘から親が財産を取り返すことができるようになり、女性も親から容易に領地を分けてもらえるようになったのです。
御成敗式目の制定前には、いったん決定された領地分けを、後になって覆すことはできませんでが、そのことを覆す道理のある申し出があった場合、後から出た申し出の効力が優越されるきまりになりました。
日本の現在の法律における、遺言の効力に近い形になったのです。
阿仏尼と御成敗式目
藤原為家の後家の立場になった阿仏尼は、先妻の生んだ子供に譲渡された領地を、自分の生んだ子供へ譲渡されるべきだという訴訟を起こしました。しかし公家法の影響が強かった、京都における訴訟においては敗訴します。
諦めなかった阿仏尼は、当時は遠路である京都から鎌倉まではるばる旅して、再度訴訟を起こしました。
阿仏尼は、御成敗式目の内容をよく知っていたようで、最終的に勝訴を得ることができました。
北条泰時のおかげともいえるでしょう。
この阿仏尼の行動によって、阿仏尼自身の子供の系統は、冷泉家として現在も続いています。
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