1968年の夏。神奈川県横須賀にある在日アメリカ軍基地から戦時下のベトナムに向けて、一機の大型輸送機C-47が離陸した。
その大型輸送機なが、アメリカ政府は軍用機として公認していなかった。「積み荷」はベトナムにおける秘密作戦で戦地に降下する、完全武装したグリーンベレーの隊員たちと国境地帯に赴くCIAの職員、彼らは軍からの正式な命令を受けて戦地に赴くのではない。
かつてCIAは、日本をふくめた世界中に民間人航空機を操り、冷戦下の秘密工作に携わったという「エア・アメリカ」という組織をもっていたのだ。
エア・アメリカとは
「エア・アメリカ」のルーツは第二次世界大戦中、中国大陸において日本軍と戦う蒋介石ひきいる国民革命軍を支援するべく、アメリカ政府が結成した義勇軍フライング・タイガースに起源を持つ。
第二次大戦が終結した後の1946年、フライング・タイガースを率いて国民革命軍を支援していたクレア・シェンノートは中国本土に居ついたまま、アメリカ政府の支援を少しばかり受けてフライング・タイガースを義勇軍から民間の航空会社へと鞍替えしたる民航空運公司(Civil Air Transport)、通称CATを設立した。
時を置かずして勃発した国共内戦では、CATはひきつづき蒋介石が率いる国民革命軍の支援にまわった。
国共内戦から周辺国の紛争への介入
1950年、蒋介石は台湾へと逃れて臨時政府の立ち上げを宣言して現在に至るが、このときもCATは関係者たちや避難民を台湾へと移送する作戦に従事する。
それが毛沢東の人民解放軍の勝利に終わってしまい、CATはスポンサーを失う。
そこで取引に応じたのが他ならぬCIA、アジアでの工作活動のためにCATを買収した。
台湾に拠点を置き、ワシントンとデラウェア州にある事務所と緊密な連携を取りつつ、あたかも民間航空会社に偽装して経営を存続させた。実際、台北や香港、東京を結ぶ、ごく普通の旅客航空便を運航する事業を行ってもいた。
同社が創業した1950年は朝鮮戦争が勃発した年でもある。台湾を拠点として、戦火にまみれた朝鮮半島とあいだに挟まれた日本や沖縄、マニラやグアムの間を絶え間なく空輸事業を行った。
その結果、CATは大いに収益を上げると同時にCIAの動きに従って、周辺国のインドネシア、ビルマ、チベットの政変に否応なく首を突っ込む。
同じ頃、ベトナムでは第一次インドシナ戦争が進行していた。CATの輸送機は、そんな状況にあるベトナム周辺にも飛ぶ。あいかわらず武器弾薬から亡命者、戦死者の遺体まで、戦地から台湾、沖縄や横須賀の在日米軍基地までひっきりなしに運んだ。
台湾や日本、香港など東アジア各国で離散集合を繰り返している間に、第一次インドシナ戦争は転機を迎える。
1953年11月、ベトナムを植民地とするフランス軍と独立を目ざすベトナム人民軍がディエンビエンフーで衝突。この戦闘でベトナム人民軍がフランス軍を倒して以降、戦局は北ベトナムに有利となり、同年7月にはジュネーヴ協定が締結されフランスは全面撤退。
一方、共産圏の拡大を抑えたい西側諸国、ことアメリカ政府は東南アジアにおける社会主義政権の実現を阻止したかった。泥沼のような朝鮮戦争が漸く、38度線を境界線として休戦に至ったのが1953年。
西側諸国と東側諸国は、この頃には冷戦に突入して久しく、東アジア、東南アジアの政情は不安定だった。世界を二分する冷戦は1991年のソビエト連邦が崩壊するまで続く。
「エア・アメリカ」の誕生
1959年、民航空運公司(Civil Air Transport)から「エア・アメリカ」に改名した。
エア・アメリカの業務内容は戦地への輸送であるから死亡してしまう事もあり、身の安全を優先して離職する者も多い。ベトナム戦争がもっとも苛酷を極めたころ、パイロットの人数が軍からの転職組だけでは賄いきれなくなる。
エア・アメリカはやむを得ず、パイロットの一般募集を開始した。航空関係者むけ就職情報誌などに「エア・アメリカのパイロット募集」の広告を載せたのだ。あるパイロットが広告に掲載された住所へと履歴書をおくり、面接をパスして採用が決まった数日後、もう彼はサイゴンにいる。
新人研修といえば、慣れない航空機やヘリコプターの操縦桿を握らせて銃弾や砲弾が飛び交う戦場へと直行、撃たれて基地へと帰還することを何度かくりかえす荒っぽさ。
当然ながら即座に辞めるパイロットもおり、そこから徐々に「エア・アメリカ」の情報がアメリカ国内に漏れていく。てっきり普通の航空会社と思って就職したキャビンアテンダントが、戦死者の遺体を運ぶ仕事をさせられたこともある。エア・アメリカの素性が知れ渡っていないころ、辞職したキャビンアテンダントは「あの会社だけはイヤ」と、別の航空会社の機内誌で堂々と語っていたという。
泥沼化する「エア・アメリカ」
CIAは共産圏と国境を接する土地にも、CATと同様の「民間航空会社」が必要であると判断。
そうして様々な会社名を持つCIA経営の「民間航空会社」が世界中に増え、当のCIAすら活動実態がつかめない程に「エア・アメリカ」は営業規模が拡大してしまう。
CIA内部の派閥が互いに情報を遮断することに加え、紛争地帯への対応は地域によって多様であること、その活動内容が上院などに伝えられないこと、偽装が巧みなあまりCIA自身が「こんな会社、いつウチは買った?」と混乱をきたす等々。
そのような理由から、CIA内部とペンタゴン、ホワイトハウス、戦地に派遣されたアメリカ陸海空軍、「エア・アメリカ」のあいだで絶え間ない軋轢が生じる混乱状態に陥った。
エア・アメリカのパイロットたちは言われるまま仕事をしていた。だがCIA上層部やアメリカ陸海空軍、ペンタゴンはそうはいかなかった。
各地に派遣されたグリーンベレーや軍事顧問団などの工作員は、現場の作戦が上手く運ぶよう、現地の要人との取引に応じざるを得ず、CIAの預かり知らぬ契約をゲリラのボスや政治家たちと結んでしまう。そして「なんとかしろ」と本国の職員たちに書類を突き出してくる。
こうしたゲリラや政治家の懐をうるおす契約は往々にして、汚職やダーティ・ビジネスの側面を持っていた。アメリカ政府は利害関係上、渋々ながら手を貸すことになる。
そうした混乱の渦中においてCIAとエア・アメリカは、戦時下の北ベトナムと国境を接し、内戦状態にあったラオスで「麻薬戦争」に首を突っ込んで泥沼に嵌まりこむ。
黄金の三角地帯に突入
ラオス北部の高地地帯、ビルマ北東部の山岳地帯、タイ北部の山脈にドラッグの一大産地「黄金の三角地帯」は存在する。この地域一帯がラオス~ビルマ~タイ~中国、そしてベトナムとの曖昧な国境に接しているうえ、外部からの侵入者を容易く寄せ付けない地形となっている。
そこでは植民地時代からフランスの奨励をうけて生産が続いていたアヘン、アヘンと同じケシから生成できるヘロインの生産が一大産業として根付いた。
フランス軍は第一次インドシナ戦争の最中、政府が削減する山岳ゲリラの援助資金を得るため、山岳ゲリラが生産するビルマ産アヘンを闇市場に流し、そこから得た利益で軍事資金を調達する方法を実行に移した。
ややこしいことに、同じころフランス軍のいる土地から少し国境を越えたビルマ領土内では、蒋介石が率いた国民解放軍の残党とCIAが手を組んで、まるで同じ方法でゲリラの軍事資金を調達する仕事に手を付けた。
冷戦当時のアメリカ政府とはいえ、そう簡単にCIAの秘密工作に金を出すほど財布の紐はゆるくない。そのため、CIAは独自の活動資金を捻出する手段に出たのである。アヘンの利権をめぐる争いはフランスが撤退した後、黄金の三角地帯で生活する山岳民族の村長やラオスの将軍、北ベトナムのみならず、ヨーロッパ諸国や香港のマフィアまで絡んだ。
アメリカが本格的にベトナムに介入した時点で、ラオス奥地は麻薬戦争の様相を呈していた。
エア・アメリカはドラッグ生産に従事する現地のCIA職員に命じられるまま、ラオス領内にある急ごしらえの飛行場へ降り立ち、持ってこいと言われた積荷をサイゴンや台北、沖縄に運んでいた。
「積荷」が蒋介石であれグリーンベレーであれ、タイのアジアゾウであれ、黙って目的地まで空輸することがエア・アメリカの仕事。
パイロットは総じて積荷の中身には無頓着だったし、中身は何だと訊ねたところで「オマエが知ったところで意味はない」と突き返されるのが定番だ。なので、たとえ木箱に大量のアヘンが仕込まれていたとしても、エア・アメリカのパイロットや整備士たちが詮索することはなかった。
1965年ごろ、とある香港の製造業者がラオス奥地にあるアヘン工場に案内された。そこで香港の業者は、おなじケシから高純度のヘロインを製造するノウハウを山岳民族に授けてしまう。1969年にはヘロインの大量生産が開始され、ラオスの山岳民族は一気にヘロイン生産で高い利益を挙げる。
そのヘロイン生産に携わる山岳民族こそ、CIAが北ベトナムに対抗するため軍事訓練を続けてきた、ゲリラ化された民族だった。そうして生産されたヘロインは険しい山岳地帯にある形ばかりのエアポートから、エア・アメリカによって、サイゴンから台湾や沖縄へと運ばれていった。
密輸されたヘロインは米軍基地のある西側諸国へと流入。回りまわって、ベトナムの戦場にいるアメリカ海兵隊員のあいだで出回る事態になる。
こうした情報は70年代に入るころにはメディアに漏れ、もはやアメリカ国内でも隠し通すことが困難となっていた。アメリカ上院議会でもたびたび問題視され、CIAや工作に関与した政治家たちは弁明や根回しに苦慮した。
エア・アメリカの航空機にはアメリカ麻薬取締局の職員が立ち入り検査に入り、事情の分からないパイロットが積荷の中からヘロインが押収される様子を唖然として眺めていた。
それはサイゴンが陥落する寸前、1974年ごろのエア・アメリカの現場事情だった。
エア・アメリカの解散
エア・アメリカは1975年4月、サイゴン陥落に際してアメリカ政府関係者や南ベトナム高官を脱出させる「フリークエント・ウィント作戦」への参加を最後として解散した。
幾多の秘密工作に関与したことが露見したことに加え、航空会社を傘下に収めても長期間に渡り偽装が出来ないとCIAが判断したためだ。
こうして「エア・アメリカ」は一応の幕を下ろすのだが、エア・アメリカと似たような業種が、現在まで本当に一掃されたのか否かは諸説ある。
U.S. Air Force, Public domain, via Wikimedia Commons
思った事を何でも!ネガティブOK!