カリフォルニア州サンフランシスコ湾に浮かぶアルカトラズ島は、その昔、問題囚ばかりを収容する監獄島だった。どんなにタフな凶状持ちも、護送されたその日のうちに心が折れる。
夜は夜で、サンフランシスコの街の灯が囚人たちを誘惑する。あの対岸まで、わずか2.4キロメートル。しかし湾内は潮の流れが早く、水温も低く、おまけにサメが生息する。自由な世界へ逃げるには、厳重な警備を破り、危険な海を泳ぎきらなければならない。
それでも連邦刑務所時代には36人の命知らずが脱獄を試みた。そのうち6人は射殺され、2人は溺死し、23人は身柄を確保された。島を脱出したのち消息を絶った残りの5人のうち、今も人々の想像力をかきたててやまないのがフランク・モリスとアングリン兄弟の脱獄劇だ。
21世紀に入り、3人の生存を示唆する新たな証言や状況証拠が時おりメディアをにぎわせている。もしも彼らが生きて脱獄に成功していたのなら、鉄壁の牢獄アルカトラズの名は地に堕ちる。
太陽のなかの孤島
「ザ・ロック」の通称で知られるアルカトラズ島は、サンフランシスコ北方の沖合いに位置する0.076平方キロメートルの小さな島だ。
連邦刑務所として使用されのはわずか29年間だが、軍事刑務所時代を含めると、監獄としては1世紀以上の歴史をもつ。
この島に連邦刑務所が開設されたのは1934年のこと。禁酒法や大恐慌による犯罪の多発を受けて、当局は「社会の敵」に対する強い姿勢を打ちだす必要に迫られた。アルカトラズ島は凶悪犯をまとめて封じ込め、隔離するのに絶好のロケーションにある。いわば政府の犯罪との戦いの象徴がこの監獄島だったのだ。服役した受刑者のなかにはアル・カポネやマシンガン・ケリーといった大物も多い。
監獄棟は3階建てで、警備は当時において世界最高のレベル。もちろん脱走対策も万全だった。600近くある監房はどれも外壁と接しないように改築され、逃亡に使われやすいトンネルはセメントで埋められた。看守のガンギャラリー(監視塔)は監房を取り巻くように配置され、ここからの遠隔操作で食堂の天井の催涙ガスが作動する。厳重な警備の裏をかいて運よく脱出に成功しても、行く手にはサンフランシスコ湾が待ちうける。
このように難攻不落を誇るアルカトラズではあったが、意外にも収容環境だけは他の連邦刑務所より格段によかった。一人ひとりに与えられる独房、おいしい食事、熱いシャワーに清潔なシーツという待遇は、受刑者には涙がでるほどありがたかったにちがいない。
フランクとアングリン兄弟の再会
1960年1月20日、アルカトラズに1人の新入りが移送されてきた。物語はここからはじまる。
男は囚人番号AZ1441、フランク・モリス、33歳。IQのきわめて高い脱走の常習犯で、各州の刑務所が持て余したあげくにここに送り込まれたのだ。フランクは収監されてまもなく脱獄を決意する。ザ・ロックへの移送は、むしろ彼の闘争心に火をつけてしまったのかもしれない。
ある日、フランクは見知った顔と出会う。別の刑務所で一緒だったジョンとクラレンスのアングリン兄弟である。ジョンとクラレンスもくり返し脱走を試みたがうまくいかず、反抗的な態度をとりつづけた結果、アルカトラズに送られたのだ。
それまで単独で脱獄を企てていたフランクは、兄弟と再会して、ともに計画を実行に移す決意を固める。3人はのちにアレン・ウエストという新たな男と手を組み、この4人で脱走計画がスタートすることになった。
自由への抜け穴
隣り合った独房に入れられた4人の男たち。
脱獄は正攻法でいく。看守を買収したり、ケガや病気を装って市内の病院へ搬送されるのは性に合わない。
計画はシンプルだった。
月明かりのない夜に独房を抜けだして刑務所の外にでる。あとは夜陰に乗じて対岸に渡るだけ。とはいえ、それを成功させるのは不可能に近かった。30人以上もの悪党が同じことをやろうとして、みな失敗に終わったのだから。
それでも、希望のあるところに道は拓ける。まずはそれぞれの独房の壁を削り、屋上へとつづく抜け穴を掘らないことにははじまらない。洗面台の下には、おあつらえ向きの換気口があった。幸いにも刑務所には工場も食堂も床屋もあるから必要な工具は調達できる。4人は食堂からこっそり持ちだしたスプーンや敷地内に落ちていたノコギリの刃を使い、換気口を広げる作業にとりかかった。掃除機のモーターで手製の電気ドリルも組み立てた。
つぎにライフジャケットやレインコートを大量に集めて縫い合わせ、空気で入れて膨らませる。脱出用の筏(いかだ)と救命胴衣である。
看守の目を欺くためのダミー人形も必要だった。床屋からくすねてきた本物の髪の毛や粘土を使い、等身大のダミーの頭部も用意した。脱走時にこれをベッドに仕込んで、眠っているようにみせかけるのだ。偽物だと気づかれるまでは時間を稼げるだろう。
フランクは毎晩アコーディオンを大音量で演奏し、仲間の穴掘り作業の音をかき消した。
運も彼らに味方した。1960年代初頭、アルカトラズはすでに老朽化しており、壁も傷みが進んでもろくなっていたのだ。
こうして脱獄の準備は着々と進められていき、1962年の春も終わるころ、ついにフランクとアングリン兄弟の脱出口が完成する。穴は人間がやっと入る程度の大きさだったが、ここまでくれば、あとは決行の日を待つだけだ。
ところが、ここで思わぬ誤算が生じる。アレンの独房は壁が硬く、換気口を開くのに手間どっている。
新月が近づいていた。
決行
1962年6月11日の新月の夜、計画は実行された。フランク、ジョン、クラレンスの3人はダミーの頭部を枕に置いてカモフラージュすると、脱出口の外側にある換気ダクトを伝って屋上に登り、監獄棟を抜けだした。それから地面に降りて走り、有刺鉄線をよじ登って、向こう側に飛び降りた。この時点で、物理的には脱獄成功である。
彼らはすぐに海に入らず、島の北東の海岸線へ向かった。そこへ行けば監視塔とサーチライトの死角に入ることがわかっていたからだ。そして手製の筏を進水させ、闇夜の波間へと消えていった。3人について確認できる消息はここまでである。
遅れをとったアレンは脱獄には加わらなかった。3人は彼を置き去りにする決断を下したのだ。アレンが脱落したことで、筏は1人分軽くなり、脱出組が湾を渡りきる可能性が高まった。この脱獄劇の裏側が世に知られることになったのは、「計画に参加しなかった共謀者」の存在があったからだ。
刑務官が脱獄に気づいたのは夜が明けてからだった。矯正官のビル・ロングは、その朝のことをこう回顧する。
「バートレットが血相を変えて飛んできて、『ビル、ビル、やられた!』と叫ぶんだ。彼の話を聞きながら、わたしはAZ1476の独房に向かったよ。ほらみろ、眠ってるじゃないかと思いながらジョンの頭を小突くと、それがいきなりごろりと床に落ちた。みんなが言うには、わたしは3メートルほど後ろに飛びのいたらしい。鐘や警報が鳴り響いて、とにかくえらい騒ぎだったよ」
大捜索
ただちに刑務所は封鎖され、FBI、沿岸警備隊、地元警察らによる陸・海・空の大がかりな捜索がはじまった。
しかし、収穫はレインコートの切れはしと廃材でつくられたパドルと所持品くらいで、遺体はついに上がらなかった。もちろんサメの餌食になったり、船のスクリューに巻き込まれて細切れになったりすれば遺体は上がらない。しかし、ただの1体も、腕の1本さえも見つからないとはどういうわけなのか。この脱走が成功したのか、失敗に終わったのか、決定的な証拠はついに見つからなかった。
17年後の1979年、FBIは公式の見解を発表し、事件のファイルを閉じる。
「湾の乱流と10度そこそこの海水温度を考えれば、脱走者が生存している可能性はきわめて低いと言わざるを得ない。脱出用の筏は進水後に破損して、3人は溺死したと推測される」
その後、捜査はFBIからUSMS(連邦保安官局)に引き継がれたが、USMSは未解決の継続事件として扱うことになったため、フランクとアングリン兄弟はいまだに指名手配犯とみなされている。
脱獄事件から1年足らずして、アルカトラズ刑務所はロバート・ケネディ司法長官の命令により閉鎖された。理由は主にふたつある。
ひとつは運営コストがかさむようになったこと。これは、あらゆる物資を船で輸送していたためだ。もうひとつは潮風による施設の老朽化である。
フランクたちの脱獄は、もはやアルカトラズが刑務所としての機能を備えていないことを物語っていたのかもしれない。
脱獄は成功したのか?
はたして3人は生きのびたのか、それとも溺死したのか。
これまでに専門家、メディア、市井のアマチュア研究者らがさまざまな説を唱えてきたが、生死についての見解は見事に拮抗している。
まずは死亡したとする説について。
脱獄囚は、たとえ脱出に成功しても、その後に捕まるケースが多い。生計を立てる手段がないからだ。食うに困ってふたたび犯罪を犯し、そこから足がつくというパターンである。
マフィアや政治犯なら組織が匿ってもくれるだろうが、3人はどちらでもなかった。現在にいたるまで一切の音沙汰がないことがなによりの証拠である、という見方だ。
またFBIの見立てと同様、深夜にサンフランシスコ湾をウェットスーツなしで泳ぐのは自殺行為に等しいという主張もある。たとえどんなに泳ぎが得意でも、速い潮流と冷たい海水のなかでは20分ともたないというのだ。
かたや生存説では、対岸に渡れる見込みは十分にあるとしている。
2014年に調査チームが行った検証では、もし23時30分前後に島を発っていたなら、海流が有利に作用して陸に到達した可能性が高いことが確認できた。
アルカトラズの囚人仲間ボブ・シブラインの証言も生存説を補強する。
ボブによると、クラレンス・アングリンが刑務官のゴミ箱から手に入れた新聞の潮見表のページをもっていたというのだ。これが本当なら、3人は湾の潮汐を戦略的に利用したと考えられる。
近年のコンピューターによるシミュレーションでは、彼らが筏に乗りこんで出発した正確な時間に謎を解くカギがあるという結論に達した。
13年後に届いたメッセージ
これまでに3人の潜伏場所に関する情報提供や目撃証言が少なからず寄せられたことをUSMSは認めている。
当初、FBIは「筏本体は回収できず、車の盗難も報告されていない」と発表したが、21世紀に入って新たに発見された公式記録によって、これを根本から覆す新事実が明らかになった。
脱獄の翌日にはアルカトラズ島の北に浮かぶエンジェル島で筏が発見されていたこと。さらに同日、カリフォルニア州マリン郡で青のシヴォレーが盗難に遭っていたこと。正午前には、サンフランシスコから東へ130キロメートルほど離れたストックトンで青のシヴォレーに乗った3人組の男が目撃されていること。
これらの齟齬はなにを意味するのだろう。FBIはなぜ、脱走者の生存を示唆する証拠をつかんでいたにもかかわらず、それらを伏せて、3人は溺死したと宣言したのだろう。その裏には、「誰一人脱獄に成功した者はいない」というアルカトラズの評判を守る意図があったとしか考えられない。
2015年に放送されたドキュメンタリー番組では、アングリン兄弟は脱獄に成功してブラジルに逃亡したという長年の噂を裏づける状況証拠が提示され、大きな反響を呼んだ。その証拠とは、アングリン一家に届いた1枚の写真だった。
1975年にブラジルで撮影されたというその写真には2人の男性が写っている。番組は、この人物こそがジョンとクラレンスだと主張したのだ。その写真はまちがいなく脱獄の13年後に撮影されたもので、写っている2人はアングリン家の人間である可能性がきわめて高いことが法医学者によって検証された。
もし写真がフェイクなら、誰かが写真の男たちの正体を暴露しそうなものだが、今日にいたるまで2人の身元は暴かれていない。3人が存命しているとすれば、彼らはそれぞれ97歳、94歳、93歳になっている。指名手配中ではあるものの、人生の半分以上を自由な世界で生きたことになる。
人々がフランク・モリスとアングリン兄弟にヒロイックなイメージを重ねるのは、本や映像作品で描かれてきた影響もあるだろうが、誰の血も流さずに塀の向こう側に立ったという事実が大きく関係しているだろう。アルカトラズの刑務官と襲撃戦を繰り広げた脱走者もいたのだから。
はたして彼らは自由を手にすることができたのか、それともアルカトラズに屈したのか。
物語はまだ終わらない。
※画像はイメージです。
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ドン・シーゲル(師匠)✕イーストウッド(弟子)の映画『アルカトラズからの脱出』元ネタですね。気合の入る話です。