国内外のさまざまなアーティストがカバーしている『アイ・フォウト・ザ・ロウ』(I Fought the Law)という名曲がある。金欲しさに法を犯し、重い労役に服している罪人の嘆きを歌った曲だ。イギリスのパンクバンド、ザ・クラッシュによるカバーバージョンは日産のCM曲に起用されたこともあるので、ご存知の方もいるだろう。
「俺は法律と闘い、そして法律が勝った」という印象的なフレーズがででくるが、現実の世界では、人は必ずしも法に負けるとはかぎらない。
すべての悪党の夢である完全犯罪。それが可能であることは、世界中のコールドケースが証明している。
今から90年前、ミズーリ州のとあるホテルの一室で一人の宿泊客が怪死した。
死んだ男は何者なのか。その陰で、まんまと完全犯罪を成功させたのは誰なのか。手がかりなしの殺人事件は多くの謎を残したまま、今も未解決のままだ。
1月2日~おびえる男性宿泊客
1935年1月2日午前10時、ミズーリ州カンザスシティのプレジデントホテルに若い男性が投宿した。
仕立てのよい黒のコートを着たハンサムな人物で、年のころは20代後半。宿帳にはローランド・T・オーウェン、住所はカリフォルニア州ロサンゼルスとある。
均整のとれた立派な体躯は否が応でも人目をひいたが、よくみると、こめかみに傷があり、特徴のある耳をしている。格闘技の選手にありがちな、ややつぶれた形状の耳である。
「ははあ。さてはボクサーかレスリング選手だな」。そう思ったフロント係は、次の瞬間、激しい違和感におそわれた。
——この人は手荷物をもっていない。
ロサンゼルスからここまでは、ゆうに2000㎞を超える。それほどの遠距離を、まさか手ぶらで移動した? そんなばかな。
オーウェンは一泊分の料金を前払いすると、通りに面していない部屋を希望した。
案内された部屋は中庭をのぞむ10階の1046号室。部屋に入ると、ポケットから櫛や歯磨き粉を取りだして洗面台に置き、それから窓の開閉具合いを確かめた。まるでなにかを警戒しているような素振りだったとベルボーイは語っている。
午後になり、客室係の女性が清掃のために部屋をたずねた。すると、まだ昼間だというのに室内が薄暗い。オーウェンはカーテンを閉めきり、テーブルランプの明かりのなかで、ぽつんと椅子に腰かけている。なにかにおびえているように。
掃除が終わり、帰ろうとするとオーウェンが声をかけた。
「あとで友人がくるから、ドアの鍵は開けておいて」
夕方、客室係が新しいタオルをもってふたたび入室したときは、彼はベッドで眠っていた。テーブルにメッセージが置かれている。
「ドン(Don)へ。15分で戻ります。待っていてください」
1月3日~謎の人物「ドン」
あくる日の朝、客室係が1046号室をたずねると、前日と同じように暗がりのなかでオーウェンが椅子に座っている。
そのとき唐突に電話が鳴って、彼はあわてて受話器をとった。そして、こう話すのを彼女ははっきりと耳にした。
「ちがうんだ、ドン。僕はなにも食べたくない。朝食を食べたばかりで腹は減っていないんだ」
16時ごろ、客室係は1046号室でオーウェンと誰かがが言い争うのをドア越しに聞いた。部屋に入るのをためらって、声をかけると、オーウェンではないほうの男がこう返した。
「帰ってくれ。なにも用はない。必要なものもない!」
この日の夜、プレジデントホテルでは気になる出来事がいくつか起きている。
1046号室がある10階の一部屋ではパーティーが開かれており、人の出入りが夜更けまで絶えなかった。
従業員が不審な男女を目撃したのもこの夜だった。女性のほうは1026号室に用事があると言い、10階でエレベーターを降りたが、エレベーターボーイはこの女性をつい最近もみかけたような気がしてならなかった。
が、ほどなくして彼は思いだす。彼女はオーウェンが投宿する前日まで1046号室に泊まっていた宿泊客だったのだ。
10階でエレベーターを降りたあと、女性が実際にどの部屋へ行ったのかはわからない。従業員の話によれば、10階のどこかで30分ほど過ごしたあと、ホテルのロビーに姿をあらわし、そこで一人の男性と落ち合って、9階に上がったということだ。
女性がホテルをでたのは日付の変わった午前4時をまわったころで、さらに15分ほどたって連れの男性がロビーにあらわれ、早朝の街に消えている。
1月4日~血まみれのオーウェンを発見
1月4日午前7時、電話オペレーターがオーウェンの部屋にモーニングコールをかけたところ、受話器が外れているのに気づいた。代わりにベルボーイが部屋に向かうが、「入室禁止」の札がでている。
ノックすると、「入ってくれ」という声がする。マスターキーをもたない彼は、しかたなく、もう一度ドアをノックした。すると今度は「明かりをつけろ」と嚙み合わない言葉が返ってきた。
どうやら酔っ払っているらしい——そう思ったベルボーイは、受話器をもとに戻すようドア越しに告げて、その場を立ち去った。
しかしどうしたわけか、その後も受話器は外れたまま。別のベルボーイが1046号室のドアを開錠して入室すると、暗がりのなか、オーウェンが裸で床にのびている。酒で酩酊しているのだと思い、問いかけをあきらめて、受話器をもとに戻して部屋をあとにした。
1時間後、奇妙なことに、またもや受話器が外れていることが判明する。ドアにはあいかわらず「入室禁止」の札がかっていて、ノックしても返事がない。鍵を開けてなかに入り、部屋の明かりをつけてみると、すさまじい惨状が目に飛び込んできた。壁とベッドに大量の血液が飛び散り、床の血溜まりにオーウェンが横たわっていたのだ。
調べれば調べるほど謎だらけ
警察と医師が到着したとき、オーウェンはまだ息があったものの、すでに瀕死の状態だった。
なにが起きたのかという問いに「バスルームですべって浴槽に頭を打った」、誰にやられたのかという問いに「誰でもない」と答えただけで、すぐに意識不明に陥った。死亡が確認されたのは搬送先の病院である。
遺体を検視したところ、以下のような特徴がみられた。
・鋭利な刃物で胸を執拗に刺されており、深い傷は肺に達していた
・頭蓋骨の陥没
・手首と足首に縛られた痕
・首に絞められた痕
・1月4日午前4時ごろから午前5時ごろのあいだに傷を負った可能性が高い
受話器が外れていることに最初に気づいた7時には、すでにオーウェンは死の淵にいたことになる。事件ではなく事故で通そうとしたのは誰かをかばうためなのか。
ベルボーイがもとに戻したにもかかわらず、外れていた受話器はなにを意味するのか。電話までたどり着くことが瀕死のオーウェンにできただろうか。加害者はどのタイミングで1046号室をでたのか。
殺意をもった、死にいたる拷問がこの部屋で行われた——警察はそう断定し、殺人事件として捜査を開始した。
殺された男は誰?
ところが、捜査はたちどころに行き詰まる。
被害者の身元照会をしたところ、ローランド・T・オーウェンなる人物はロサンゼルスに存在しないことがわかったのだ。正体を洗いだすために似顔絵を作成して広く情報も募ったが、彼を知る人物はいっこうにあらわれない。
殺害現場にもいくつかの謎が残されていた。
オーウェンが着ていた服はもちろんのこと、部屋のタオルや石鹸までもが何者かに持ち去られ、消えている。テーブルには水の入ったグラスがふたつ。希硫酸の入った未開封の小さな瓶。部屋のランプに女性のものと思われる指紋。もちろん女性従業員のものではない。
なにより不思議なのは、オーウェンと一緒にいた男の指紋がどこにもないのだ。
オーウェンと口論していた男と電話をかけてきた「ドン」は同一人物であり、この男こそ犯人であろうと警察は見立てたが、その正体にたどり着く手がかりさえみえてこない。ホテルという人目につきやすい場所を選び、時間をかけて、いたぶるように殺害しているにもかかわらず。
次々に登場する怪しげな人物
身元不明の遺体は無縁墓地に埋葬することが決まった。ところが、葬儀の日時が報じられた直後に警察にかかってきた1本の電話をきっかけに、ふたたび捜査が動きだす。
「ホテルで死んだ男は、わたしの義理の兄弟だ。葬儀費用はわたしが払う」
匿名の男性はそう告げて、 一方的に電話をきった。
突如としてあらわれた謎の人物。だが、おそらくはいたずらだろう。警察はまともにとりあわなかったが、まもなく多額の現金が届いたことで風向きが変わる。
この新たな展開に彼らは乗ってみることにした。このままでは、どのみち迷宮入りはまぬがれない。葬儀には、もしかしたら事件に関わる重要人物がやってくるかもしれない。
しかし、期待は空振りに終わった。葬儀の日に届いたメッセージカードと13本の薔薇が新たな謎をもたらしただけだった。
「永遠の愛 ルイーズ」
やれやれ。今度はルイーズか。
アルテマス・オグルツリー殺人事件
1年がたち、被害者も犯人も謎のまま、事件が人々の記憶から薄れつつあったころのこと。
突如として被害者の身元に関する有力な手がかりが飛び込んできた。雑誌で事件の記事をたまたま目にしたある女性が、被害者の男性はオグルツリー夫人の失踪した息子によく似ているとの情報を寄せたのだ。
ルビー・オグルツリーは、その女性の友人だった。ルビーはオーウェンの写真をみて、一昨年に家をでた息子のアーテマスにまちがいないと断言する。ここにいたって、ようやく捜査に光明がさしてきた。被害者の本名は、アーテマス・オグルツリー。
一方のルビーはといえば、息子だと認めはしたものの、彼が死んだことが信じられなかった。なぜなら、彼女のもとには事件後も息子から手紙が届いていたからだ。もっとも、手紙に違和感を感じなかったといえばうそになる。アーテマスはタイプライターが使えなかったはずなのに、手紙はタイプライターで書かれていたのだ。
手紙だけでなく、正体不明の人物からの電話もあった。その男はアーテマスに命を救われたと自称し、息子さんは今エジプトで富豪の娘と幸せな結婚生活をおくっていると伝えた。ところが警察が出入国記録を調べてもアーテマスが出国した記録はなく、カイロ大使館に問い合わせても入国記録はない。
手紙も電話も、おそらくはアーテマスの生存を偽装するための工作だったと思われる。息子はまだ生きていると母親に思わせて、身元の特定を遅らせるためである。
1046号室の男をめぐるミステリー
手がかりがまったくないわけではない。多少なりとも糸口はある。しかし、それらのすべてが断片的かつ中途半端な「点」ばかりで、いっこうに線を結ばない。
たとえば13本の薔薇。薔薇13本の花言葉は「永遠の友情」だが、13という数字は裏切り者の意味ももつ。「裏切り者」と「ドン」を結びつけて、マフィアによる制裁を受けたのだとみる向きもある。
しかし、それにしては仕事ぶりがお粗末すぎる。部屋中に血しぶきが飛び散るような殺し方をすれば、犯人も返り血を浴びかねない。本職のお作法は、もっとシンプルであろう。プロの刺客が拷問場所や殺害場所にホテルを選ぶとも思えない。
いちばん気になるのは、ほとんどの証言が従業員によるものということだ。ホテルスタッフが事件の関係者に買収されていた可能性はないだろうか。
これほど出血量が多ければ血の匂いが充満して、部屋に入った時点で異変に気づきそうなものなのに、それにまったく気づかなかったのが現場に最初に入室したベルボーイだった。裸で床に横たわる宿泊客をみて、そのまま放置したのも不自然きわまりない。
アーテマスはなぜ殺されたのか、葬儀費用を払ったのは誰なのか。警察は、どの答えにもたどり着くことができなかった。ひとつだけいえるのは、犯人は完全犯罪をなしとげたということだ。
さまざまな完全犯罪
現実の世界では、杉下右京や金田一耕助のような名刑事や名探偵はそう都合よく登場しない。冒頭で述べたように、完全犯罪は可能なのだ。
犯行が露見しても、捕まらなければよいだけのこと。たとえ嫌疑をかけられようと、犯人である証拠を握られようと、刑罰を受ける恐れが消滅するまで、すなわち公訴時効が成立するまで逃げきれば完全犯罪は達成される。
巧妙なトリックによって犯行そのものが露見しない場合もある。実際に犯罪が起きたことの証拠がなければ、犯罪行為を行ったとして誰かを起訴することはできないから、これは完全勝利といえる。
一方で、容疑者が逮捕された事件においても完全犯罪は存在しうる。ひとつは、被告人が真犯人であるのに無罪判決が確定するケース。蛇足になるが、2024年9月に開廷した「紀州のドン・ファン殺人事件」の公判で、「これは完全犯罪だ」と検察側が言ったとメディアが伝えている。
もうひとつは、被告人が犯人ではないのに有罪判決が下されるケースだ。つまりは冤罪であり、表向きは解決した事件の裏で完全犯罪を達成した真犯人がいることになる。先に述べたように、真犯人は「逃げきった」のである。
アテナイの英雄テセウスはミノタウロスを退治したあと、脱出不可能な迷宮を糸玉の糸をたどって脱した。完全犯罪を封じる糸がすべての事件にもあればよいのだが、そううまくはいかないのが現実だ。
featured image:TV news story about disappearance, Public domain, via Wikimedia Commons
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