皆さんは戦国時代の武将・武田信玄に仕えた諜報集団、歩き巫女の実体をご存じですか?もともと祈祷や託宣で生計を立てていた彼女らは、いかにして武田信玄に道具として見出されていったのでしょうか。
今回はくノ一と巫女両方の性質を併せ持ち、全国を行脚して情報収集に励んだ歩き巫女のルーツに迫っていきます。
甲斐武田家と歩き巫女の繋がり
まずは歩き巫女を組織した甲斐武田家の説明から。甲斐とは現在の山梨県をさし、戦国時代は武田家が治めていました。特に有名なのが第18代当主・武田信虎とその息子の信玄(幼名晴信)で、この二人の統治期に甲斐は最盛期を迎えます。
信虎は地方の守護大名から戦国大名に成り上がった実力者。息子の信玄も偉大な父の才覚を受け継ぎ、隣の信濃を攻め落とすなどして、国を盛り立てていきました。一方では戦国最強の騎馬軍団を率いて、「甲斐の虎」の勇名を轟かせています。
武田家が何故破竹の快進撃で周囲の国を落とせたのか?それには忍者の存在が深く関わっています。
武田家は代々忍者の集団を組織し、諜報活動に当たらせていました。彼等は「三ツ者」「透波(すっぱ)」と呼ばれ、間見(遠方偵察)・見分(近場偵察)・目付(監視)の任務に就いていたと言います。
ここから派生したのがくノ一の流れを汲む歩き巫女。特定の寺社に属さず全国を回り、個人で占いや祈祷を行い生計を立てる彼女たちは、地方ごとに「マンニチ」「マンチ」「トリデ」「ヤカミシュ」「ノノウ」「飯縄」と、様々な名前で呼ばれてきました。その代表格が梓弓を用いて託宣を成す梓巫女で、主に関東・東海地方で活動していたそうです。
女性の諜報集団のメリットは第一に怪しまれないこと。よそ者が警戒されるのは世の常ですが、女子供を疑うものは少ない為、情報収集が捗ります。また、占いからお悩み相談まで幅広く代行する彼女たちのもとには、自然と噂話が集まってきます。庶民は元来領主の動向や戦の気配に敏感なので、彼等の話に耳を傾けることで、きな臭い世間の情勢を把握できました。中には売春を行って、寝物語に情報を入手する巫女もいたようです。
歩き巫女のトップ・望月千代女の伝説
武田信玄は歩き巫女の養成を目的とし、信濃国小県郡祢津村に「甲斐信濃巫女道」と称する習練場を建て、全国の戦災孤児や捨て子を連れてこさせました。その中から特に容姿や知性が優れた少女が選別され、巫女に求められる技能や知識、諜報技術を叩きこまれます。訓練は過酷を極め、途中で脱落する者も少なくありません。
この少女たちを束ねる巫女頭(みこがしら)こそ、川中島の戦いで戦死した信玄の甥・望月盛時の未亡人にして、才色兼備のくノ一上がりと後世に語り継がれる望月千代女でした。
千代女を輩出した望月家は代々忍の一族であり、分家が甲賀五十三家(こうかごじゅうさんけ)筆頭になっています。信玄によって巫女頭に命じられたのちは、歩き巫女の育成に率先して関わるのみならず、彼女たちを全国に送り出す役目を仰せ付かっていたとか。早い話が祢津村のビッグマザーです。
そのカリスマ性が評価されたのか、『戦国無双シリーズ』『信長の忍び』『Fate/GrandOrder』など、様々な版権作品に登場しているので、名前を聞いたことがある方も多いのではないでしょうか?
武田氏滅亡後は真田家が甲斐信濃巫女道を引き継ぎましたが、それは巫女頭である千代女の家系が、真田と繋がっていたからだと推測されます。噂の真偽は不明なものの、精強をもってなる真田忍軍が武田の忍を多数取り込んだのは事実なので、歩き巫女が属していてもおかしくないですね。
歩き巫女たちの生業と外法箱の中身
戦国時代に活躍した歩き巫女の年齢は、十代後半~三十代前半となっています。これは当時の平均寿命が短かった為で、老齢の歩き巫女は珍しかったそうです。遊女を兼任していた事実を踏まえれば、肉体と容色の衰えを理由に、引退した歩き巫女も相当数いたと考えられます。
歩き巫女の仕事には前述した占いや祈祷の他に、自らの体を依代にした、死人の口寄せも含まれました。そこから派生した別名が、万日供養を意味するマンニチ。死霊を下ろす舞をミズスマシにたとえ、コンガラサマと呼ぶ地方もありました。
彼女たちの最大の特徴として挙げられるのが、背中に担いだ外法箱です。通常は舟形に縫った紺色の風呂敷に包まれており、占いの時だけ開陳されます。箱の内部にはご神体が納められているものの、目視を許されるのは歩き巫女本人だけで、庶民が目にすれば祟られると信じられてきました。
ご神体の種類は多岐に及び、弓を携えた案山子の像や男女の交合像、猫の頭の干物や白犬の頭蓋骨、はては雛人形や藁人形まで様々。むしろ呪具といったほうがしっくりくる禍々しさで、実際に呪詛に使われることもありました。洒落怖で有名な師匠シリーズの傑作『外法箱』は、この逸話から着想を得たものです。ホラーラノベ作家である甲田学人も、外法箱を題材にした小説を書いています。
余談ですが男女の交合像は陽物信仰とも結び付き、売春を副業とする歩き巫女にとって、守り神の意味も持ちました。
外法箱は歩き巫女の妖力の源であり、扱いには細心の注意が払われました。儀式の際は丁寧に風呂敷を解き、安置した箱の表面に枯葉で水を掛け、平伏して託宣を仰いだそうです。外法が仏法以外の教え、ならびに仏教以外の思想や宗教を意味する点からは、「外法箱」が民間信仰の産物であることがわかりますね。人や動物の髑髏を使った呪術を外法と呼び習わすのも、おどろおどろしいイメージに拍車を掛けています。
歩き巫女を護衛した神事舞太夫の存在
千代女が全国に放った歩き巫女には、神事舞太夫と呼ばれる男性の護衛が付いていました。通常、巫女たちは数人で固まり行動します。これは夜盗や暴漢から身を守る為で、長旅を続ける上での自衛の知恵でした。しかし万全とはいかず、世話役として神事舞太夫が同行するようになります。彼等は巫女たちの荷物運びや宿の手配を担い、必要とあらば現地の有力者と交渉し、様々な神事を執り行ってきました。
神事舞太夫の同行には別の目的もありました。それが歩き巫女たちの監督。祢津村を遠く離れた歩き巫女の中には、現地の男と恋仲になり、駆け落ちする不届き者もいました。彼女たちをただちに連れ戻し、出来心を起こさないように見張るのもまた、神事舞太夫の大事な役目です。
……というのは口当たりの良い建前にすぎず、実際は監視対象の歩き巫女と恋に落ち、出奔する神事舞太夫がいたことも付け加えておきます。もっとも主君に背く駆け落ちがご法度なだけで、引退後の妻帯自体は認められていました。村に帰った神事舞太夫が適齢期の歩き巫女と夫婦になり、養女として引き取った孤児を一人前に育て上げるのは、一般的なケースだったようです。
そのような集団行動をする歩き巫女とは別に、素性を隠して単独で活動する巫女や、敵の屋敷に女中として潜入するくノ一も少数ながら存在し、彼女たちにはより秘匿性の高い任務が課されていました。
日本一の巫女村の現在
以上、武田信玄がスパイに仕立てた歩き巫女のルーツを紹介しました。武田家の滅亡後も甲斐信濃巫女道は存続し、明治期まで歩き巫女を輩出していたというのですから、歴史の長さに唖然としますね。
現在も日本一の巫女村として観光客が絶えず、御役御免になった歩き巫女を葬った墓碑や、少女たちが寝起きしていた屋敷の跡地などが残っているそうです。歩き巫女の来歴をさらに深く知りたい方は、ぜひ足を運んでください。


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