1989年に起きた、アッシュ・ストリート銃撃戦は日本でほとんど知られていない事件。
アメリカ国内で名を馳せた主にアフリカ系アメリカ人で構成されたストリート・ギャング「クリップス」。ラップミュージックでその名は広まり、今や日本でも知られるようになった。
そのギャングが、アメリカ陸軍レンジャー部隊と銃撃戦を繰り広げた。
事件について広く知られてはいるものの、今なおその詳細には不明点が多い。
証言や捜査記録は食い違い、新たな証言が続々と出てくる中で、事件の真相は明かされることなく、数十年が過ぎようとしている。
事件の発端とその経緯を追ってみよう。
最初の火種
ワシントン州タコマ、人口およそ21万人の港湾都市。
1987年、アメリカ陸軍レンジャー部隊に所属していたビル・フォークは、市内にある朽ちた一軒家を買った。
値段は驚くほど安く、約1万ドル(当時の日本円で200万円程度)。この価格に、ウィリアムは魅了されたのだ。
家は老朽化していたが、自ら手を加えて改築するつもりだったという。
家を購入した後、パナマからの派遣任務が終了して帰宅すると、ビルは予期せぬ現実に直面することになる。
向かいの家には、昼間からギャングたちが出入りしていた。
どうやら、そこは全米でも有数のストリート・ギャング「クリップス」のアジトだという。
ビルが購入した家がある地域はタコマ市内でも、とりわけ治安の悪化していたヒルトップ地区のド真ん中、アッシュ・ストリートの住宅街のなかに位置している。ここでは、ストリート・ギャング同士の抗争が頻発、様々な犯罪や路上での麻薬の売買が横行していた。
ウィリアムは事件後にそう語っているが、家を購入する前に周辺事情などを確かめなかったらしい。
安い物件は相応の理由があるのだ。
紛争勃発
ストリート・ギャングがのさばるアッシュ・ストリートを目の当たりにしたビルは警察署に駆け込み、警官を問いつめたが、返ってきた頼りない回答だった。
タコマ市警は慢性的な人員不足や資金不足に悩まされ、ヒルトップ地区にまで手が回らない。
現状ではどうにもならない、云々。
実際に現行犯の現場を目撃しない限り、通報があっても対応はしないという体たらく。
それからというもの、ビル・フォークは彼の妻や地域の住人たちと結託し、写真を撮影し犯罪の証拠をあつめはじめると、地元新聞が活動を取り上げられて抑止にはなったのだが、ギャングの怒りもかった。
それでも警察の介入はなかったようで、ビル・フォークは決意した。
「ポリ公なんてアテにできやしない、オレの手で何とかするしかない」
手始めとして自宅の2階に監視カメラを設置しクリップスのアジトにレンズを向け、武装させたレンジャーの仲間を呼び寄せ、犯罪に対抗する決起集会とばかりにBBQパーティーを開いたのだった。
BBQパーティー戦争
ビル・フォークとレンジャー部隊の仕事仲間たちは、庭でビールをガブ飲みしながら陽気そうに騒ぎ始めた。
バーベキュー・パーティーは、挑発する意図があったかはわからないが、「俺たちはいつでも相手になってやるからよ」と風にギャングたちは捉えたのだろう。
彼らが飲み食いしているさなか、防犯カメラに向けて石ころや腐った梨を投げつけ、家にエアガンを撃ち込み、あからさまに彼らを挑発した。しかしビル・フォークと仲間たちはびくともせず、あざけ笑うだけなのだ。
ところでこの状況で気になることが2つある。
1つ目は「腐った梨」で、原文をそのまま訳しているのだが、本当に「腐った梨」なのだろうか?
嫌がらせで投げつけるのに最適だったのか、なにかのスラング表現で、本当は違った物をなげたのか?そのあたりの事情はわからない。
2つ目は「エアガン」。原文はBBガンなのだが、イメージしやすいように「エアガン」とした。
ちなみにここで言う「エアガン」は日本のものと違い、高圧ガスで鉄球を打ち出すものもあり、当たりどころが悪ければ人をも殺害してしまう可能性が高い。
今度は戦争だ!
双方の罵声が飛び交い、ケンカが一線を越えるまでは時間の問題だと、近隣の住人のひとりが事件後に語っていたのだが、その時間がやってきてしまった。
ビル・フォークはさらに仲間のレンジャー隊員を呼び出し、バリケートを築きヤル気満々だ。
呼ばれてやってきて新聞記者がみたものは、完全武装の隊員たち。すべて自腹で購入した銃器とされているのだが、軍用のM16アサルトライフルも見受けられた。
ワシントン州では条件さえ揃えばマシンガンの所持は法的に可能、ましてやレンジャー隊員であれば問題ないのかもしれないが、いかがなものだろう?
さて話はもどるが、しばらく両者のにらみ合いが続き、幾度目かの罵倒合戦のさなか、一発の銃声が響いた。
どちらが先に引き金に指をかけたのかの記述は見当たらないが、21時20分、ついに撃ち合いが始まる。
耳をつんざく発砲の音が一斉に鳴り響き、アッシュ・ストリートは大量の銃弾が飛び交う、文字通りの戦場と化す。
警察が現場に駆けつけ、終息を迎えるまでの約30分の間に激しい銃撃戦が繰り広げられ、最大300発もの弾丸がいきかった。しかし双方に死者は出なかったというのだ。
結末
警察は現場から複数の銃器を押収、二人の男を逮捕し、うち一人は後に第2級暴行罪で有罪判決を受けた。
だが、問題はそれで終わったわけではない。
この事件は、街全体に深い衝撃を与え、これまでの無策を晒す結果となったからだ。
当時、タコマ警察は極めて消極的な方針をとっていた為に、住民たちは日々悪化する治安の中で、ただ手をこまねいているしかなかった。
ビル・フォークたちが自ら武器を手に立ち上がったという事実は、もはや行政が市民を守れないことを痛烈に示した。
事件後、タコマ市警の人員や予算は飛躍的に増大され、ヒルトップ地区からクリップスは退去を余儀なくされる。
タコマ市政はヒルトップ地区の生活環境を改善するプログラムを計画、実行に移した。プログラムは功を奏し、現在のヒルトップ地区は以前と比べると格段に治安のよい場所となった。
この事件は、単なる一夜の銃撃戦ではない。
それは、腐敗した無関心に対して人々が示した怒りの爆発であり、崩壊しかけていた市民社会が自ら再生への道を歩み出すための痛みでもあったといえるのだ。
ビル・フォーク
最後に事件の中心人物、ビル・フォークにフォーカスを当てる。
事件後、フォークは激しい注目を浴び、一部からはヒーローのように扱われたが、軍内部では事情が違った。
米陸軍レンジャー部隊は、一般市民との間で銃撃戦を繰り広げた兵士たちの存在を快く思わなかったのである。
ビル・フォークは上層部からの圧力と内部の微妙な空気を肌で感じ取り、数か月後、彼は自ら軍を離れる道を選んだ。
あの晩、仲間たちとともに取った行動について、彼は今も後悔していない。
「必要なことだった」と断言。
ヒルトップ地区は、警察に見捨てられた無法地帯だった。
銃を取る以外に街を守る術はなかったのだと、フォークは信じている。
それでも、銃撃戦によって生じたさまざまな「後遺症」を無視することはできない。
あの夜を境に、一部の友人たちは彼から距離を取り、彼自身もまた、静かに孤独を深めていった。
しかし、彼にとってもっとも重かったのは、誇りと後悔の間で揺れる自分自身だった。
正義のためだったと信じている。
だが、もし、あの夜、誰かが命を落としていたらどうなっていただろうか。
現在、ビル・フォークは表舞台から退き、家族と静かな生活を送っている。
時折、あの夜の記憶が甦るたび、彼は目を閉じる・・・正しかったのか、間違いだったのか。
いまだに彼自身の胸の内で、問い続けられているのであろう。
※画像はイメージです。
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