イスラム教徒による、日本での土葬受け入れの話題が、ニュースに採り上げられていた。
日本も、戦前には土葬習慣があり、キリスト教徒なら今でも土葬を希望する可能性は充分ある。ただ、この話は外国人による日本の土地利用の話が混じるため、簡単に善し悪しは断言出来ない。
断言出来ない話を論ずる時は、オカルトの文脈にリアリティレベルを下げるのが最適だろう。
オカルトの場合、土葬、火葬について考える事は1つ。
「その葬り方をしたら、天国に行けるのか?」である。
土葬は何のため?
天国、と言ったが、これはキリスト教における「Godのおわす場所」に限定しない、もっと一般的な「死後の楽園」と思って貰えれば良い。
冒頭に採り上げたイスラム教は、ユダヤ教を源流としているため、旧約聖書の世界観でひとまとまりに出来る。ここに出て来る人間は、神が土から作ったアダムとイブを始祖とする一連の存在である。
楽園追放後、アダムとイブの子らと番いになった連中は……まあ、それは置いといて。
この人間達は、死んだ後勝手に輪廻転生はしない。土の中で待機後、世界の終わりに復活し、神の裁判を受け、善なる者は永久の祝福が受けられる。
ユダヤ教系では、この復活後の裁判時に、身体が必要と考える。
どんなに正しい生き方をしていても、身体が損壊させられていると、神判のスタートラインにも立てない。
彼らにとって、肉体を極端に損壊する火あぶりの刑は、死後にすら救いがない最悪の刑という事になる。このため、火葬への忌避意識が強い。
古代エジプトのミイラも、肉体を残すという意味で土葬と発想は同じだ。時間軸を考えれば、こちらが源流である。
古代エジプトの人間は、名前、肉体、影、バー(魂)、カー(精霊)の5つが一体となったもので、死後は肉体からバー(魂)が抜け、冥界で死者の審判を受ける。
「真実の羽根」と「死者の心臓」を天秤にかけ、罪の重さを量り、罪がない者は楽園(アアル)に復活出来る。
ただし、この時に肉体が残っていないと、魂は行き場所を失い、本当の死が訪れる事になるとされた。
火葬文化の根拠
一方、仏教は火葬を選ぶ傾向がある。
これは、「釈迦が火葬された事が元」と説明される事があるが、ならば何故釈迦は火葬されたのか、という堂々巡りの問いになってしまう。
火葬に関しては、仏教単体で考えない方が良い。
ユダヤ教を土台としてキリスト教やイスラム教が発祥したのと同様、仏教やヒンドゥー教はインド神話が土台となっている。仏教の発祥したインドは、火葬が積極的に行われている土地である。
野焼きした死体の灰や骨をガンジス川に流すというのは、かつてのインド旅行者がしばしば言及する光景だ。
炎は、インド神話の火神アグニそのものであり、立ち上る煙は、人を神々の住まう天に繋ぐ。
肉体は燃料ではない。わざわざ燃料を用意して火葬するからには、良い葬儀、正しい葬儀として価値が見出されている。
インド神話と火葬の関係には、インドの気候が影響している可能性が高い。
インドは雨期と乾期がはっきりしており、首都ニューデリーの場合、6月から9月にかけて集中的に雨が降り、それ以外の時期の月間降水量は30mmにも満たない。
この極端な水量は、治水技術が未発達な時代においては、洪水の発生と同じ意味だ。
人間一代では成し遂げられないような大規模な都市文明の発展に、「先祖」「子孫」という発想は不可欠だ。
当然、先祖への崇敬、すなわち墓は必須となる。もし墓の主役が「死体」なら、洪水があっても決して流されない「一等地」に作る必要がでる。
だが、一等地は農作業や生活の場としても必須の土地である。何の生産性もない墓地の為に使用するというのは、非常に非効率な話だ。
故に、人々は死者の肉体の価値を下げる方向にバイアスが働く。
肉体に本質はなく、もっとこう、ふわっとしたものに本質がある事にする。すなわち魂である。
この時、肉体は放置して腐らせたり、野犬に味を覚えさせるよりは、さっさと燃やして処理したくなる。
この時モコモコ立ち上る煙は、魂がフワフワ乗っていくのに丁度良い。
インド神話はそんな風景が言語化されていったのではなかろうか。
日本の埋葬
日本の仏教は、長らく神仏習合したマーブル模様の宗教となっていた。
仏教の発想としては、先に述べた通り、輪廻転生の面からは肉体は魂の抜け殻に過ぎない。釈迦崇拝という意味では、火葬をやりたい気持ちがある。
一方、燃料の不足や、「熱いのは可哀想」という素朴な祖霊信仰、祖先崇拝の感覚から、土葬を選ぶ地域も多かった。
明治期に入って火葬禁止令が出された事があったが、これは神仏分離令による過剰反応で、2年ほどで終わっている。
尚、現行法「墓地、埋葬等に関する法律」は、土葬を禁じてはいない。
日本神話の場合はどうか。
こちらの死後の世界は、かなりシビアである。
神々の住む高天原は、死後の人間を受け容れる場所ではない。
ただ、死後の場所として、「黄泉」があるだけだ。
この地、死んだ者は神でも人でも行かなければならない場所で、元は現世と地続きだった。
火之迦具土神(ほのかぐつちのかみ)を生んで焼け死んだ女神、伊弉冉尊は国生みを果たした最高位に近い神だが、この決まりを逃れる事は出来なかった。
夫の伊弉諾尊は、黄泉から彼女を助け出そうとしたが、腐敗しかけた彼女の姿に恐れ戦き、黄泉比良坂まで逃げ、黄泉の入り口を塞いでしまった。これにより、自由な出入りは出来なくなった。
その後、日本神話は神武天皇への繋がりを示唆したところで終わる。
終末の日のような未来について語る内容はなく、黄泉に落ちた人々が最後にどうなるかも明示されない。
現世と黄泉の境界は黄泉比良坂という「坂」と表現されるため、「下」にイメージがあり、土葬の方がスムーズだ。だが、それは黄泉での幸せとは関係ない。
日本神話の場合もう1つ、貴人の葬儀に「殯(もがり)」という風習がある。
腐敗過程を経て白骨化まで埋葬せず放置するという、風葬のような、少々グロテスクな文化だ。
殯においても、その後の白骨は埋葬するが、肉は大気中に消えるように見えるため、火葬と土葬、中間の葬儀方法と言える。
最初にこれに近い状態になったのが、先述の伊弉冉尊であるから、これをやったからといって、「天国」に行けないのは同じと言える。

天国への道はどっち?
あなたが「天国」を目指したい場合、それはどの方向性だと感じたろうか。
ユダヤ教的な終末後の復活を願うなら、やはり土葬かミイラを作って貰うと良いだろう。肉体は何より重要だ。
だが、復活に現世の死んだ後の肉体が必要というのは違和感がある、神が全知全能なら肉体ぐらい作ってくれるだろう、と感じるなら火葬で問題ない。
輪廻転生を信じるなら、肉体はどうでも良い筈だ。
その上で、やはり肉体は残しておきたいと思うなら、矛盾を理解しながら土葬を選ぶと良い。仏教はあくまで思想であって、自然科学的な観察結果ではない。
何より感情は大切だ。そこに、本意が混じっている事もある。
死後なんてものはない、と考えるなら、死んだ肉体をどうしても良い、という事になろうか。
死後がないのであれば、今は奇跡でしかない唯一の生である。何かしら、成し遂げる事に心血を注がないともったいない。死後を考える暇も無いのかも知れない。
お気づきだろうか。
オカルトであっても、その世界観の中で道理は存在する。
自分が何を信じているかをハッキリさせる事は、いわゆる「天国」に近付く道でもある。
火葬が必要か、土葬が必要かは、あなたの紡ぐ物語次第である。
それが定まっていれば、無闇に「地獄行き」を煽る輩など出会っても、矛盾や違和感に気付き、対処する余裕は出来るだろう。
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