良く知られる故事成語に「胡蝶の夢」がある。
「蝶になった夢を見たが、人が蝶の夢を見たのか、蝶が人の夢を見たのか、よく分からなくなった」という荘子の感想である。
自我はオカルティックな領域からも様々考えられるものだ。
何らかの事情で「胡蝶の夢」トラップに陥り自我が揺らいだ時、蝶と人、どちらが現実か判別出来るだろうか。
自我を決定付けるもの
夢と現実が曖昧になるというのは、創作においても山ほど触れられるモチーフのため、今さら語る程もない。
『女神異聞禄ペルソナ』然り、『超光戦士シャンゼリオン』然り、『BREACH』然り。
自分が自分のまま、もしくは別存在でも人間のまま夢や催眠の中にいる時、見分けるのは難しい。
だが、こと、「胡蝶」の夢に関しては、ある程度判別が付く。
まず、あなたユダヤ教系列の世界観で生きる場合、人間以外の生物に魂はないという事になる。「胡蝶の夢はただの夢」でファイナルアンサーだ。
彼らが人間以外の生命も想像出来ない蛮族だから、ではない。
ヨーロッパ文明の基本は、地中海性気候と、ケイ素ばかりの不毛なイネ科の草原である。水が少なく、生える植物は人が消化できない、砂漠に住む民と本質的には変わらない。
目の前のものは、食い物とそうでないものに分ける。
味方以外の生物に情けをかければ生き延びられない。
それは、哀れむべき環境であり、責めるものではない。
東洋においては、輪廻転生の生死観を基本とする。オカルトにおいても、輪廻転生を肯定する方が多数派だろう。
この時、蝶の魂も人の魂も本質は変わらない。
だが、魂はそのまま意識になる訳ではない。
本質の自意識は変わらないが、思考の産物である自我や記憶は、脳の影響を受ける。
比較すべきは、脳のサイズ、ニューロンの数である。
蝶が人間の夢を見る場合
昆虫の脳は、見ての通り小さく、ニューロン数は100万程度である。
人間が1000億程度なので、その差10万倍である。
人間の脳は10%以下しか使っていないという都市伝説もあるが、それを適用しても1万倍である。
さて、蝶が人の1/10000のニューロンの脳で、人の夢を見たとしよう。
その人としての生活は、どのようなものだろう。
幼少時の最初の記憶から始まり、過去の思い出、日々のあれこれ、昨日の朝起きてから夜寝るまでを細かく作り出せるだろうか。
これは非常に難しいだろう。
記憶容量の不足もそうだが、蝶がどれだけ人間を観察出来るかも怪しい。
おはようからおやすみまで、蝶が人の暮らしを見つめるのは大変だ。
家の中に入っていれば追い出され、そもそも何が行われているかの理解が出来ない。蜜を吸って生きる蝶から見れば、食事の風景さえ何なのか理解出来ないだろう。
蝶も幼虫時代は似た形で摂食していたが、恐らくサナギを経て「噛み砕く」という摂食方法を忘れている。
記憶が残っていないからこそ、変態後誰に教えられた訳でもなく空を飛び、いきなり花の蜜を餌と認識出来るのだ。
あなたが蝶の見た夢である場合、その人間の生活は、蝶の要素を含み、漠然とした曖昧なものとなる。
チェックポイントは以下の通りだ。
- 人間だが、空を飛んでいる
- 口吻を伸ばして食事する
- 歩く、座る、立つなどの行動はするが、その理由は交尾か食事
- 排泄と食事は同じ場所
この辺りが当てはまれば、あなたは蝶の見た夢だろう。

人間が蝶の夢を見る場合
逆に、あなたが人で、蝶の夢を見ている場合のチェックポイントは以下の通りだ。
この記事が読めている
恐らく、ディスプレイの端にでも留まって読んでいるのだろうが、蝶は普通文字を読めない。
実験的に証明するのは難しいが、ニューロン数からも恐らく理解出来ない。
人間はIQ20の段階で読み書きや言語はほぼ不可能となる。
ニューロンが必ずしもIQと比例する訳ではないが、無関係ではない。1万分の1のニューロンで、IQ20を超える事は困難だろう。
このニューロンで人間のように読み書きするというのは、3.5インチフロッピーディスクをメインドライブ、プロセッサが386CPUのハードで、『ファイナルファンタジー16』を動かすぐらい無理無謀である。
そもそも、人間が夢見る蝶は、自然なようで、あまり上手く再現出来て居ないはずだ。
優れた知能を持つ筈の荘子にしてからが「栩栩然(自由で愉快)」の一言でしか表現出来ていない。
思い返してみると良い、幼虫時代はともかく、サナギから孵化した後、飛ぶ以外の行動は何か覚えているだろうか。
どの花の蜜を何回吸って、どこをどう飛んだか。何に襲われ、どんな風に揉まれたろうか。
そのようなものを辿れば、概ねこの蝶の記憶が人の考えるステロタイプの空想に過ぎず、自我は人間にある事が判明するだろう。
蝶の夢の人がいるなら
尚、胡蝶の夢の故事で語った荘子の主張は、「一切斉同」である。
人であろうが蝶であろうが、今を受け容れ、無闇に差にこだわらず、無為自然に生きよ、といったものだ。
上述した判別法は、荘子の本意を無視した、無粋な事である事は認める。
量による差異は、時として質の差異に似るため「一切斉同」が事実に即しているかは疑問が残るが、そもそも哲学者は数字を嫌うので、目指すところも違う。
従って、あなたの知り合いの中に「私は蝶で、お前等はただの夢です」と主張する人がいても、それで楽しくやっているなら、無闇にツッコミを入れない方が良い。
判別法を説く事も、良い結果にはならない。
深淵を覗くとき、深淵もこちらを覗く。
見ていれば引き込まれる。
その手の人は、放置して立ち去るが1番である。
マジで。
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