ドイツ製の有名な軍用拳銃のひとつにモーゼルC96、通称モーゼル・ミリタリーというオートマチック拳銃がある。モーゼル・ミリタリーは第二次大戦前から日本国内で流通しており、軍や民間人が使用していたことを御存知の方も多いと思う。1930(昭和5)年ごろ、東京の浅草周辺で暴れまわっていたと伝えられる「羽織やくざ」樋口天洋もまた、モーゼル・ミリタリーの愛用者であった・・・らしい。
樋口天洋の逸話
樋口天洋(天雷と自称したとも)は1900(明治33)年ごろに生まれた。父親は右翼団体の元祖的存在である九州の政治団体との繋がりが深く、「政治ゴロのようなことをしていた」という。
天洋の両親はそうこうするうち、現在の中国北東部、やがて満州国となる地域に出向いて「堅気やくざ」となり、土木業を始める。だが何が起きたのか部下に裏切られて組を追放され、天洋の両親は窮死してしまう。
このとき天洋は旧制中学を卒業していたというから、17歳を過ぎていた筈だ。旧制中学を卒業した後に、亡くなる直前の両親を追って中国に渡ったとされるが、1917(大正6)年といえば第一次世界大戦の最中だ。
この年、中華民国はドイツに宣戦布告する。渡航先の国内情勢は、日本にも増して不安定であった。
こうして中国で天涯孤独となった天洋の危機を救ってくれたのが、日本人街にある女郎屋だった。
天洋は女郎屋の世話になって日本へ帰国、この体験は天洋にとって決定的となり、浅草に根を張ると娼婦や芸人たちの助太刀をするようになる。
その最中に、2丁の当時最新式のオートマチック拳銃であるモーゼルミリタリーを馬賊から手に入れたという。依拠した文献の記述では「十連発の重いモーゼル拳銃」としか書かれていないが、他の資料や時期と照らし合わせればモーゼルミリタリーであったと判断した。
賭場荒らし
1923年、関東大震災が発生。浅草は壊滅状態に陥ると同時に、ヤリ手の商家や高利貸しが震災後に焼け跡となった土地を勝手に乗っとり自分のものにする騒動が多発。
そうして得た金を博打場で散財する者も多く、そこに天洋と仲のよい博打仲間がいた。その博打仲間から強引な地上げの情報を聞き出した天洋は、それを元に商家や高利貸しをおどすようになるが、ネタが切れると賭場荒らしを初める。
「賭場荒らし」といっても、やくざを相手に大立ち回りをするのではない。堅気の商家や商店主が集まる賭場にひとり乗り込んで、両手に構えたモーゼルミリタリーを天井にむけて発砲し、堅気衆をビビらせる手口だった。とりあえず場を収めるため、賭場を経営する一家は適当な金銭を天洋に渡して退散させる。
関東大震災が起きた後の浅草は縄張り争いが複雑化しており、天洋があちらこっちの賭場で賭場荒らしを繰り返しても「敵対する組による嫌がらせか」と思い込んで、賭場の経営者は無関係な筋への殴り込みを繰り返した。
そうした殴り込みが何度か起きた後、個人的な賭場荒らしを対立する組の嫌がらせと思い込ませるのが手口だと判明し、バレた天洋は演芸場や映画館ひしめく浅草公園六区に逃げ込み、日ごろから力を貸している娼婦や芸人たちに庇われて姿をくらました。
この間に大正天皇は崩御、元号は昭和へと転じた。
暗殺者
娼婦のツテで、花街のある向島の賭場に天洋が現れていることを掴んだ某一家は、関西から来ていた「殺しの曽我」という兄弟に暗殺を依頼する。この兄弟「ナシオトの殺し(ばら)」という暗殺術を得意としていた。
真夜中の路上で、ターゲットに向かって兄貴が小声で道をたずねて「え?なんだって?よく聞こえん」と相手が聞き取ろうとする隙に、弟が忍び寄って背中から刺殺する。それが「ナシオトの殺し」。「ナシオト」はたぶん「音無し」を逆さまにしたネーミングだろう。
1927(昭和2)年の秋。兄弟は暗殺するため夜道で待ち構えていた。依頼した一家は若衆と死体を海に捨てる船まで用意して天洋を待った。すると間もなく天洋が向こうからやって来て、兄は天洋にむかって「旦那ぁ、ちょっと道をお尋ねしますが」と、例によって小声で話し掛けた。
このとき兄弟と若衆たちは知らなかったが、暗殺の件をすでに天洋は知っていた。暗殺を依頼した一家の賭場に出入りしているヤクザ者から、暗殺計画が漏れていたのである。耳を傾けるフリをして兄に近づき、羽織の下に携えていたモーゼルミリタリーを引き抜いて背後にいた弟にむけて発砲して射殺。兄や若衆にも発砲し難を逃れた。
それ以来、天洋は何度となく暗殺されようとするも、そのたびにモーゼルミリタリーを駆使して撃退した。その暗殺者は実行前に逃げ出した者をふくめ三十名にのぼる。業を煮やした東京周辺の一家は一致団結して1930(昭和5)年、突撃隊を集めて36人の暗殺部隊を結成。物量でいっぺんに襲撃したことで、ようやく天洋の暗殺に成功した。
樋口天洋は存在したのか?
ここまで樋口天洋の生涯を長々と説明してきたが、個人的に腑に落ちない話である。この樋口天洋なる人物、果して実在したのか確認できないのだ。
これまで記述してきた天洋の生涯は、「破滅の美学 ヤクザ映画への鎮魂曲」の一章「狂気」で語られている。結構な無法者であったのだから戦前からネタにされても不思議ではない。ほかに天洋を書いた書籍は無いかと、国立国会図書館デジタルコレクションに当ってみても、「破滅の美学」の底本である「鎧を着ている男たち」のほかに無い。
そもそも笠原和夫氏が1968(昭和43)年ごろに取材先で樋口天洋の生涯を採取した時点で、すでに浅草周辺の住民のあいだで伝説となり、相当な創作が施されているのではないかと疑わざるを得ない。
わたしの手元にはモーゼルC96の派生型であるモーゼルM712のモデルガンがあって、大きさと重さから、とてもじゃないが二丁拳銃で使用できる代物ではない。実際にモーゼルC96を片手で発砲している海外の動画を視聴すると、銃弾は何処に飛んでいくか分かったものではない。
二丁のモーゼルミリタリーを隠すのに洋服より都合がよいからといって羽織袴を着て、肺病を病んでいた樋口天洋の生涯もさることながら、絡んでくる人物たちのキャラクターが立ちすぎている。
小悪党「葬いの和助」、「必殺!」シリーズまがいの「ナシオトの殺し」を駆使する「殺しの曽我」、暗殺計画を密告、のちに天洋暗殺に失敗する「双っ面のカジさん」、天洋を匿う浅草芸人や娼婦たち。
事実とは思えない程、ストーリーやキャラクター、設定が出来過ぎている。
また九州の政治団体には確かに樋口某という、大正8年(1920年)に大連で亡くなったとされる人物はいるようだ。しかし、彼が樋口天洋の父親である根拠は見つからない。
伝説の存在
大正から昭和にかけての浅草で、無数の侠客や博徒、博打打ちの人生が時代と口承をへて語り継がれ「編集」されていくうち、戦後の昭和40年ごろにストーリーが完成していた伝説上の人物に過ぎないのではないか?
そんな樋口天洋は、名脚本家・笠原和夫の手により「横紙破りの前科者」(1968年)で若山富三郎が演じる主人公のモデルとなり、虚構のキャラクターとして映画の世界に影をとどめることにもなった。
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