人間が人間を食す行為を指すカニバリズム、という言葉はどこかで聞いたことがあるかもしれない。
今日では決して許容されることはない行為だが、過去にはそれらが行われたという記録が存在する。
常軌を逸したこの食人という行為、それは「悍ましい」という感情を抱くだけで片付けていいものだろうか。人々が食人行為に走る動機は果たして猟奇的なソレだけだろうか。およそ読む人間を選ぶテーマであることを重々承知しつつ、筆者の好奇心の赴くままに調べ、紙面を広げていく。
食のタブー
カニバリズムがなぜ起きるのか。この題を詰める前に、そもそも存在する「食のタブー」を整理していく。
食のタブーとは、あらゆる観点から「食べてはいけない」とされている食材を指す。あらゆる観点とは「宗教的観点」を筆頭に「文化・法律的」そして「心理的」「医学的」などが挙げられる。
文化や法律は宗教同様その土地ごとに根付いた観点であるから、タブーとされる食材は国や大陸で変動する。
心理的観点とは「食べるのが心理的にはばかられる・抵抗がある食材」・・・例を出すなら犬猫が主のペット動物などが該当する(地方によっては犬猫を食用と捉える所もあるが、今回は補足に留める)。
医学的観点は食べるとアナフィラキシーショックなどの症状が現れるアレルギー源の食材や、率直に毒性のある食材を指す。
カニバリズムがタブーである所以
前章の内容を踏まえると、食人行為がタブー…禁忌とされる思考も整理がしやすくなる。法律的観点からは食人がすなわち傷害・殺人・遺体損傷や遺棄などの犯罪が前提であり不可。心理的には同種・同族を食す・・・共食いへの抵抗心や嫌悪感が湧く。
医学的にも、食人行為によって感染する病(クールー病という。儀式的に食人を行っていた原住民族間で広まった感染症であるがここでは詳細は割愛する)の存在もあるので、やはりどの観点からも禁忌扱いは避けられないだろう。
ではなぜ、人々は「人の肉を食おう」という思考に至り、あまつさえその習慣が根付いたのか。
食人行為に人々が見出したものとは
比較的現代で見られる食人の記録は猟奇事件の犯人の凶行として載っているものが多い。1981年の日本人留学生により引き起こされた「パリ人肉事件」など、知っている者も多いのではないだろうか。
罪なき人間を手にかけ、食人を実行した犯人たちは、「人間の肉を食べたい」という欲求を満たすべく犠牲者を生み出している。
これらの実際に起きた事件を元にした創作作品も世に多くあり、食人行為は特殊かつ異常な嗜好を持つ人間によって行われる異様な行為というイメージが先行しがちであるが。
時代をもう少し遡ると、食人行為を行った人々の動機は当時の土地や時代背景の影響を受け大きく異なっている。
戦争や天災、山や海上での遭難などが原因で深刻な食糧不足が発生した際などは民間やコミュニティ間で食人が行われたという記録がある。
難破船の船長が死んだ船員の肉を獣肉と嘯き食べさせた逸話はもしかしたら聞き覚えがあるかもしれない。また戦時中は捕虜として捉えた敵国の兵士の肉を食べたという記録もあり、こちらは戦時中の食糧不足を解消する目的の他、敵対勢力への見せしめの意味も込められていたと思われる。
宗教的な側面の例
宗教的、あるいは儀式的な目的で食人が行われた記述もある。古く旧約聖書の中には「主である神に逆らえば子どもの血肉を食うと同等の大罪の裁きを受けることになる」、新約聖書にはキリストが「仮に私の血肉を啜ったならば、永遠の命を得たあなたを私は終わりの日に蘇らせるだろう」と語る節がある。
また埋葬の儀式の一環として食人を行う原住民も存在した。葬儀の際の食人は弔いの意味もあったが、このように総じて昔から「遺体を食べる」という行為には大罪であるという認識の他に「人肉を食す・・・己の内に取り込むことで元の存在が持つ生命力やその他の力をも取り込む」という神聖視された目的もあったといえる。
かつてアジア圏では人体の肉や内臓を漢方として利用する風習があり、我が国日本でも、人間の胆を乾かし丸薬として販売していた山田浅右衛門の話も伝わっている。『食糧難解消』『宗教に則った儀式的行為』の他、『薬効』を期待した食人行為も記録が残っている。
結局、カニバリズムとは?
文献を広げ、流し目で見渡しただけでも、食人行為やそれを行う人々の心理には単の『悍ましさ』以外にも込められていた思いが滲んでいる。
カニバリズムとは、食人とは決して許容も看過もできない行為ではあるが、そこで嫌悪するだけで振れようとしないのは勿体ないほどの思慮や思念が「何故カニバリズムは起きるのか」「先人たちがカニバリズムの先に求めたものとは何か」という部分には含まれている。
大手を振って勧められるテーマではないが、興味が湧いたなら忌避せずに紙面に目を通してみてほしい。
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