映画やドラマ、マンガや小説の世界には「ヒーロー」と呼ばれる存在が登場する。
著者が思うのは、彼らは正義の味方ではない。しかし明確な悪でもない。
法や司法が裁けなかった悪人に対し、暴力という手段で制裁を下す存在だとして、共通しているのは「正義が機能しない世界」で個人が背負う責任の重さを描いている点。
では、ヒーローが現実の日本社会に実在した場合、本当にヒーローとして成立するのだろうか?
正義ではなく「私刑」であるという事実
ヒーローの本質は正義ではない。
それは、暴力を正当化し、個人が独自の判断で行使するからである。
問題は行為の善悪ではなく、誰が裁き、誰が罰を決め、誰が責任を取るのかという点だ。
この問いに答えられない存在は、どれほど動機が善良であっても社会では許容されない。
仮に現代日本でヒーローが出現し、数人の犯罪者や不起訴となった人物に私的制裁を加えたとする。
最初に起きるのは喝采ではない。混乱だ。
メディアが騒ぐ可能性はあるが、同時に警察や公安が介入し、報道そのものを抑え込む可能性も高い。
理由は単純で、存在が知られれば模倣犯が必ず出るからだ。
警察や国家権力は、ヒーローを特別視しないだろう。
扱いは一貫して犯罪者である。
日本では即射殺のような極端な対応はほぼ起きない。
代わりに行われるのは、長期的で執拗な監視だ。
通信履歴や人間関係、生活動線が洗い出され、周囲の人間から切り崩され、最終的に別件で確保される。
その後に待っているのは長期勾留と社会的信用の完全な破壊である。
正体不明のまま活動を続けられるのは、物語の中だけだ。
正義は簡単に量産される
もしダークヒーローの存在が世間に知られれば、世論は必ず割れる。
英雄として崇拝する者、強力すぎる力に恐怖する者、犯罪者として糾弾する者、三極構造は避けられない。
そして最も厄介なのが模倣者の出現だ。
象徴的な存在が現れたとき、人は簡単に「自分も正義を執行できる」と錯覚する。
正義を名乗る暴力ほど、制御不能なものはない。
現代社会では、ネットによる英雄化が加速する。
軽すぎる刑罰への不満、司法への失望、鬱積した怒りが合流すると、ヒーローは象徴として祭り上げられる。
ただし現実では、警察や国家はこの流れを拡散させないだろう、称賛は地下に潜り、批判だけが表に出る。
それが現実の情報統制だ。
ヒーローは「成立しない思想」
フィクションのヒーローは、物語を成立させるために存在を許されている。
だが現実は違う。
正義の定義を個人が独占した瞬間、その人物は社会にとって危険物になる。
どれほど悪人だけを狙っていたとしても、次に誰を裁くかは誰にも止められない。
個人が持った強大な力では、社会は良くならず、犯罪抑止にもならず、最終的に脅威となり国家権力によって排除される。
ヒーローが魅力的に見えるのは、あくまでフィクションだからである。
現実でそれを許した瞬間、正義という言葉が持つ信用の崩壊が起こるだろう。


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