最近、歴史をいろいろ調べていて意外な事実がわかったもので、江戸城無血開城についてこぼれ話的にご紹介します。
幕末、明治維新の歴史って激動の時代でかなり複雑なために、歴史ファンにとっても誰をメインにするかで興味の範囲が限られたりしますよね。
ピンポイントで池田屋事件や禁門の変は知っていても、意外と全体の流れとか主要な出来事がつながらなかったり、坂本龍馬の活躍には興味あるけど、慶応3年(1867年)11月の近江屋事件以降のことは知らんわという人もいるはず。
江戸城無血開城といえば、勝海舟と西郷隆盛が対面している絵が有名なので、あの濃いキャラクターふたりが江戸城で対談して決まったというイメージを持ってる人も多いのではないでしょうか。
実は、ふたりが会って話し合ったのは事実なんですが、その裏では意外なことがあったのですよ。
まず、慶応4年(1868年)1月、鳥羽伏見の戦いが起こったが、大坂城で明日は決戦だと15代将軍慶喜は宣言、幕臣たち、会津や桑名などの兵が準備している夜中に慶喜は会津候、桑名候に老中や若年寄などを連れてトンズラ、船で勝手に江戸へ帰ったのです。
そして慶喜は大嫌いな謹慎中の勝海舟を呼びつけたということ。
江戸城では徹底抗戦か恭順かと論争となり、抗戦派の小栗上野介が開陽丸ら無傷の幕府の海軍の船を使い、フランス軍の訓練を受けた洋式軍隊を駆使して箱根以東で新政府軍を袋のネズミに、という戦略を披露し(後に新政府軍の大村益次郎がそれをやられたら勝てなかったと言ったそう)、恭順すると主張する慶喜の袴にすがったが慶喜は思いきり振り払って去ったという話も。
恭順と決まったのち、勝海舟は、会津候、会津藩士たち、桑名候や新選組などを江戸から追っ払い、もし新政府軍と戦いになった場合を考えて、攻撃を受ける前に江戸城と江戸の街に放火し、新政府軍の進軍を防いで焦土と化す作戦を考えていたという話なんです。
これは1812年、ロシア侵攻したナポレオンの攻撃を受けたモスクワでロシア軍が行った作戦を参考にしたそう。
勝は有名な火消しの親分の新門辰五郎らにも協力を仰ぎ、江戸湾に集めた船で江戸市民を避難させる用意もしていたそうなんです。
幕末の志士たちはアメリカ建国の父ワシントンやナポレオン(フランス革命の完成者という見方だったらしい)を尊敬していたということですが、さすが型にはまらない考え方の勝海舟、なかなかグローバルな知識を持っていたのではないかと感心しきりに。
また、薩摩藩、長州藩士らと近かったイギリス外交官パークス公使が、15代将軍の切腹をと迫る強硬派だった西郷に対し、「ナポレオンですら島流しだったんですけど」と説得した話もあり、西郷は強硬主張をやめて無血開城を請け負い、新政府側を説得して江戸城無血開城になったわけです。
歴史ファンとしては世界史と日本史がつながるような逸話にちょっと興奮しましたです。
※画像はイメージです。
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