幕末明治維新、江川太郎左衛門っておもしろい

幕末、明治維新を調べていたら、色々な人物がいますが、江川太郎左衛門英竜という人が意外に興味深かったのでご紹介しますね。

韮山代官江川太郎左衛門英竜と言う人で、坦庵(たんあん)という号でも知られています。
家代々が伊豆の韮山の代官で、この人は幕末の頃に砲学とかの塾を開いて、のちの有名になった志士たちが入門たことで有名ですが、お代官様としても活躍してるんですよ。

父が長命だったので、代官職を継いだのが35歳で天保6年(1835年)のこと。
韮山代官は江戸の屋敷と伊豆と半々で過ごしていたが、英竜は江戸で岡田十松に剣術を学んで免許皆伝の腕前、同門の斎藤弥九郎と親しくなって一緒に代官地の領内をお忍びで行商人の姿で歩き回ったりした話もあるそうです。

それに天保7年(1836年)に甲斐の国で騒動が発生したとき多くの無宿者が加わっていと聞き、英竜は自分の領地や幕府の天領へ騒動が波及しないか心配して、やはり斎藤弥九郎とお忍びで様子を見に行ったという、まるで時代劇の浪人者みたいなことをやってるんですね。
ちなみに斎藤弥九郎は神道無念流の練兵館の主で、桂小五郎(木戸孝允)らの師匠です。

江川英龍, Public domain, via Wikimedia Commons

江川英竜は、練兵館設立のパトロンとして資金提供もするほど仲が良かったそうで、どうりで桂小五郎も江川塾に砲学を習いに行ったのはそういうコネだったのかと。
それで代官としての江川英竜は悪代官でなくて公正な代官で、あの二宮尊徳を招聘して農地を改良したり、蘭学の素養があったために種痘の技術が伝わると積極的に領民に接種を勧めたとかで、「世直し江川大明神」と敬愛されていたそうです。

蘭学者としては、砲台を作ったり、日本初のパンを焼いたり、農兵を訓練して号令の言葉、前へならえとか右向け右とかを最初に使ったりしたり、もちろん大砲の鉄を作るために反射炉を作った(息子の代に完成)など、あまりの激務に安政2年(1855年)1月に55歳で病死してしまい、安政の大獄に引っかからないのはよかったが、明治維新に活躍できなかったのは残念です。

肖像画は、マグロのような大きな目を見開いた印象的な顔で忘れられないですが、この人が主役の大河ドラマとかもおもしろいのではと思うこの頃であります。

eyecatch source:江川英龍, Public domain, via Wikimedia Commons

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