かつてアメリカにはボルステッド法という天下の悪法があった。
日本では禁酒法と呼ばれることが多いせいか誤解を招きがちだけれど、条文で禁じていたのは酒類の製造販売・輸出入・流通のみで、飲酒行為についてはひと言も触れていなかった。つまり、飲酒そのものは違法ではなかったのだ。
新たな法が敷かれるたびに、よからぬ連中が知恵をしぼる。
密造酒の闇市場を支配して巨万の富を得たアル・カポネと財務省捜査班の闘いを描いた『アンタッチャブル』は100万部以上を売り上げて、人気テレビシリーズとハリウッド大作を生みだした。原題の“The Untouchables”とは捜査チームの異名であり、「手のとどかない奴ら」すなわち「買収不可能な男たち」を意味する。
陣頭指揮をとったのは、ご存知エリオット・ネス。「暗黒街の帝王に敢然と立ち向かう正義の人」というネスの人物像は100年近くたった現在も揺るがない。これはひとえに原作に施された脚色に負うところが大きい。晩年は薄給のセールスマンにまで身を落とし、多額の借金と重度のアルコール依存症に苦しんでいたネスが、自伝を出版するにあたって役人時代を美化したのだ。
カポネのあとに待っていたのは12人を血祭りにあげたサイコパスだった。ネスの人生を狂わせたのは、たったひとつの敗北だったのかもしれない。
アンタッチャブルの虚像
スカーフェイスを失脚させた法の執行人としてもてはやされるエリオット・ネスだが、その実像は映画やドラマで描かれてきたものとは大きくかけ離れている。実際のところ、彼は捜査の囮に使われたのだ。カポネを監獄送りにした真の功労者はほかにいた。
連邦政府は、脱税とボルステッド法違反の両面からカポネを追いつめようと考えた。本命は脱税での摘発であり、ボルステッド法違反のほうは脱税捜査を極秘裏にすすめるための目くらまし。禁酒法チームの主任にネスが抜擢されたのは、正義感が強く、名声の鬼という性分が買われたからだと思われる。
華々しい活躍についても割引いて考えたほうがいいだろう。カポネ側の記録にネスの名はないという有名な話があるが、それはどうやら真実らしいのだ。
アンタッチャブルというチームについても実話との齟齬がある。実際のメンバーは11人で、買収された者もいたこと。銃は一度も発砲しなかったというメンバーの証言があること。オデッサの階段を彷彿とさせるユニオン駅での銃撃戦は現実にはなかったし、人々がイメージするような清廉潔白な男たちでもなかったのだ。
立件を主導したのも脱税チームのほうだった。カポネには脱税の罪で懲役11年、罰金5万ドルの有罪判決が下されたが、気の毒なことに、ネスの集めた禁酒法違反の証拠はすべて罪状には無関係だった。禁酒法チームが違法な醸造所を次々と暴き、数千件もの禁酒法違反の証拠を握っていたのはまぎれもない事実なのだが。
さて、ここからは、あまり知られていない「その後」のエリオット・ネスの話になる。
DOI(のちのFBI)入局の夢はジョン・エドガー・フーヴァー(のちのFBI初代長官)に阻まれた。ネスの人気にフーヴァーが嫉妬したから、というのがその理由らしい。そういえば、ジョン・デリンジャーを追いつめたメルヴィン・パ―ヴィスの出世を妨害し、辞職に追いこんだのもこの人だった。部下にとっては、かなり面倒な上司だったことはまちがいない。
ネスは鬱々とした思いを抱えながら各地の酒類取締局の首席捜査官を歴任する。ギャングスター天国であるクリーヴランドの公共治安本部長に就任したのが1935年12月のこと。任務は組織犯罪を取り締まり、警察の汚職を一掃すること。
市民の期待と歓迎のなかで彼は着任した。この街に、まさか自分のキャリアを地に堕とすことになる殺人鬼が潜んでいようとは夢にも思わなかった。
エリオット・ネス vs.キングズベリー・ランの屠殺者
ジョン・ロックフェラーが成功し、富を築きあげた街として知られるオハイオ州クリーヴランド。音楽好きにはおなじみのロックの殿堂もここにある。
1935年から1938年にかけて、この街で12人が惨殺される事件が起きた。うち9人は今もって身元すら判明していない未解決の連続猟奇殺人事件である。
被害者は全員頭部を切断されており、大半は四肢も切りとられた胴体となって発見された。性別・年齢・人種はばらぱらで、男性の多くは去勢され、なかには腰から半分に切断されているものや化学的処置が施されたものあった。
検死や現場検証は暴力の痕跡を解き明かす考古学のようなもの。死体の切断面が非常にきれいで、素人の手口ではなかったことから、犯人は解剖学の知識と技術をもつ人間と推察された。「キングズベリー・ランの屠殺者」または「クリーヴランド・トルソー・キラー」と呼ばれるゆえんである。キングズベリー・ランとは第一の犠牲者が発見された場所をいう。
頭部のない死体は身元の特定も困難をきわめる。かろうじて身元が判明したのは第2、第3、第3の被害者のみ。遺体たちが語ってくれたわずかな手がかりから、被害者たちはスラムの住民ではないかと捜査当局は考えた。
世界恐慌の爪痕はここでもまだ癒えず、クリーヴランド・フラッツと呼ばれるスラムができあがり、素性も定かではない下層民が大量に流れ込んでいた。この国は移民の国で戸籍制度がない。ましてや社会的ネットワークから切り離されたスラムでは、誰かが消えても不審に思う者などいない。彼らはなんの庇護ももたない、社会的弱者だったのだ。
無力な人間ならなおのこと、快楽殺人者の視界に入ってはならない。
快楽殺人という迷宮
ネスが正式に着任するまでに、すでにエドワード・アンドラーシとジョン・ドウ I の2体が発見されていた。「ジョン・ドウ(John Doe)」とは名前が不明の人物にあてられる仮名で、日本では「山田太郎」のようなもの。ただし、「ジョン・ドウ」は訴訟においても仮名として用いられることがある。女性の場合は「ジェーン・ドウ(Jane Doe)」だ。
この事件では身元不明の被害者が複数でたため、ジョン・ドウ I 、ジョン・ドウ IIと番号つきで呼ばれることになった。
ネスは捜査を開始するが、立ちどころに行きづまる。
今度ばかりはこれまでとは勝手がちがう。金の匂いに群がるギャングなら行動パターンもよみやすいが、快楽殺人鬼の行動原理はまったくつかめない。なにを考えているのかすらわからないサイコパスをどうしたら捕まえることができるのか。
犯人からの挑戦状を受け取ったのは、ちょうどそんなときだった。新たな犠牲者のかたわらに血で書かれたメッセージが残されていたのだ。
「よう、国家の犬ども。さっさと俺を捕まえろ。さもないと、もっと多くの心臓を止めるぞ。俺はクリーヴランドの屠殺者だ」
このメッセージは捜査の緊急性を呼び起こすとともにネスを焦らせた。
1938年8月16日には、オフィスの目と鼻の先でジェーン・ドウ IVとジョン・ドウ VI がみつかった。まるで彼をあざ笑うかのように。
殺人鬼のいる日常。市民のなかには恐怖のあまりヒステリックになる者もいた。犯人逮捕のプレッシャーが襲いかかる。
考えに考えてだした答えはこうだった。「トルソー・キラーがターゲットを物色する場所をなくせば犯行は止まるはず」。
2日後の18日、ネスはスラムの住民を強制退去させると、一帯をガソリンで焼き払うという強硬策にでる。
結果として、これを境にトルソー・キラーの犯行とみられる犠牲者は途絶えた。しかし、その強引な手法に非難の声が殺到し、ネスの名声は一転して地に堕ちる。「12人を殺害したサイコパス」よりも「犯人ひとりを捕まえるためにスラムを焼き払った捜査官」のほうが悪目立ちしてしまったのだ。
キングズベリー・ランの屠殺者の前にネスは完全に無力だった。
4年後、ついに事件の解決をみないまま彼は役人人生を終えることになる。本事件について記者から質問されると、答えをはぐらかした。
容疑者たち
公式の被害者は12名ではあるが、このほかにも損壊状態がよく似た身元不明の遺体が多く発見されている。どこからどこまでが本事件の被害者なのかは見解が分かれており、クリーヴランド市警察の刑事主任ピーター・メリロのように、犠牲者は40人を超えると見積もる者もいる。
後年、ネスは「犯人にはたどり着いていた」と告白した。ここでは彼が最重要容疑者として名指しした人物、フランシス・スウィーニー博士に焦点を絞って話をすすめていく。
スウィーニーはクリーヴランド出身の医師であり、第一次大戦中は医療部隊に所属した退役軍人でもあった。戦場での外科手術に関しては豊富な経験をもつ。
この男を強く疑っていたネスは尋問し、ポリグラフの嘘発見テストも行った。結果はシロとはならず、テストを担当した専門家は「真犯人はあなたの手中にある」とネスに告げたとされているが、この話はネス本人による作話の可能性も否定できないため、どこまで信がおけるかはわからない。
ちまたを騒がせているトルソー・キラーは、あなたではないのかと追及すると、スウィーニーは余裕たっぷりにこう言った。
「わたしが犯人ならきみに尻尾はつかまれないし、犯人でないなら弁解も必要ない」
これに対して、ネスはどのような言葉を返したのだろう。
結局、スウィーニーを逮捕・起訴にもちこむことはできなかった。
決定的な証拠がつかめなかったことが大きいが、当のスウィーニーがみずから精神病院に入院し、以降は病院から病院へと転院をくり返すようになってしまったのだ。法的責任を回避するため精神疾患者を装ったとも解釈できる行為だが、本当のところはどうだろう。
フランシス・スウィーニーはネスの政敵である下院議員マーティン・スウィーニーの従兄弟にあたり、スウィーニー議員はネスの捜査の迷走ぶりを批判していたという背景がある。
落魄の晩年
犯行が止まってしばらくたったころ、ネスのもとに1枚のポストカードが届いた。
「冬になったから、太陽の輝くカリフォルニアに行くことにしたよ。少しはあんたを休ませてやらないとな。人間を解剖するのは気持ちのいいもんじゃないが、すべては医学のためさ。ゴミどもが消えたからって、なにか不都合でもあるのかい?」
ネスとその家族のもとに届く、あざけりや嫌がらせの手紙は1950年代までつづいた。差出人が誰なのかは今もってわからない。スウィーニーが病院から書き送ったものかどうかも明らかになっていない。
この事件以降、ネスの人生も迷走をはじめる。
1942年に飲酒運転で当て逃げ事故を起こし、それを隠蔽しようとして失敗。公共治安本部長職を辞任せざるをえなくなる。ワシントンD.C.へ移って連邦政府のもとで働いたのち、1944年にすべての公職を辞して民間警備会社に就職。1947年には、失われた名声を取り戻そうと政界入りに色気をみせてクリーヴランド市長選に出馬。結果は惨敗。
警備会社を離れたあとは本屋の店員やセールスマンなどの職を転々としながら借金生活。このころには酒場に入り浸るようになり、酔っては禁酒法時代の昔語りに花を咲かせていたという。
私生活も恵まれていたとはいいがたい。ワーカホリックであったことが災いしてか、あまり家庭を顧みる余裕はなかったようで、結婚生活は長続きせず、三度の結婚をしている。その時々で愛人をつくり、不貞もくり返した。
晩年は深刻なアルコール依存症にも悩まされた。禁酒法違反の取り締まりに命をかけた元捜査官が、アルコールなしでは生きられない人間になってしまったのだ。
UPI通信のスポーツライター、オスカー・フレイリーと出会ったのは1956年のことだった。ネスの語る武勇伝に興味をもったフレイリーが、「カポネとの闘いを本にしてはどうか」と勧めたところ、ネスは「きみが書いてくれないか」と応じた。
『アンタッチャブル』はエリオット・ネスの自伝ではあるが、ネスの口述にもとづいてフレイリーが執筆した本である。
その翌年、みずからの伝記が世にでるのを待たずに彼は心臓発作でこの世を去った。54歳だった。
自伝『アンタッチャブル』は売れに売れ、テレビドラマ化もされて一大ブームとなるわけだが、これまた皮肉なことに、当の本人はその成功を目にすることはなかった。せめてもの慰めは、莫大な負債が印税により完済されたことだろう。
没後40年となる1997年になって、当局による正式な追悼式がクリーヴランドのレイクヴュー墓地にて執り行われた。ネスは今、カポネを追いつめたシカゴではなく、屠殺者が最初の犠牲者の遺体の一部を遺棄した地点からそう遠くない場所で永遠の眠りについている。
featured image:Eliot Ness, Public domain, via Wikimedia Commons


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