私は幽霊を信じている。信じているから怖い。
信じてもいないくせに怖がる人間を私は軽蔑しているが、これから書く話は、その軽蔑を差し引いても怖かった。それから、怪談を聞くと「酔っていたのでは」と言い出す人間がいる。
想像力の欠如だ。先に数字を出して黙らせておく。
七月最後の金曜日、会社近くの居酒屋で同僚のM瀬と飲んだ。M瀬は三つ下で、仕事は速いが声が大きい。私の苦手な部類だ。それでも他の誰も乗らない日に誘いを断らないのは、私が暇だからである。
二十時から二十二時半までの二時間半で、生ビールの中ジョッキを二杯、ハイボールを一杯飲んだ。純アルコール量は、ビール500ml×5%×比重0.8で一杯20g、二杯で40g。ハイボールはウイスキー30ml×40%×0.8で9.6g。合計49.6gだ。体重70kgの男性にビドマーク式を当てはめると、飲み終えた時点で血中濃度は約1.0‰になる。ただし二時間半のあいだ肝臓は分解を続けている。毎時0.1g/kgとして70×0.1×2.5で約17.5g。残りは約32g、血中濃度にして約0.65‰。ほろ酔いの域だ。千鳥足にはならないし、幻聴が出る水準でもない。実際、店を出てから自宅まで、私は一度もよろけていない。
駅から自宅までは徒歩十一分。M瀬も同じ方向なので、改札を出てから二人で歩いた。一方通行の住宅街で、右はブロック塀、左は三階建てアパートの駐輪場、突き当たりは月極駐車場になっている。
異変はアパートの駐輪場を過ぎたあたりで始まった。足音が一つ多い。
私の靴は革底のストレートチップで、アスファルトの上では「カッ」と硬く鳴る。M瀬はスニーカーで、ほぼ無音だ。その「カッ」のあとに、湿った「ぺた」という音が割り込んでくる。素足にビーチサンダルを引っ掛けた人間の歩く音に近い。
私は歩数を数えた。私が七歩進む間に、その音も七回鳴った。歩調は私と同じで、一拍遅れている。私の歩幅は約0.7m、歩く速さは毎秒1.4m前後だから、一歩に要する時間は0.5秒。つまり「ぺた」は、私の「カッ」の0.5秒後に、毎回正確に鳴っていた。
最初に疑ったのは反響だ。ブロック塀が自分の靴音を跳ね返しているなら筋は通る。だが数字が合わない。音速は毎秒340m。0.5秒遅れて返ってくるなら、反射面は片道85m先にある。この道の左右はブロック塀とアパートで、幅は4mもない。そこで起きる反響の遅れは二十ミリ秒前後で、耳には音の厚みとして処理されるだけだ。しかも反響なら、返ってくるのは硬い「カッ」であって、湿った「ぺた」ではない。反響説は、計算した時点で終わっている。
決定的だったのは、月極駐車場の手前で私が立ち止まったときだ。「カッ」が止まり、0.5秒後に「ぺた」が一回だけ鳴って、止まった。音の大きさからの推定で、私の真後ろ、二メートルもない位置だった。
二歩先でM瀬が振り返った。「どうしたんですか」
「後ろ、誰かいるか」
M瀬は私の肩越しに道を見た。街灯は道の先まで二本とも点いている。「いないですよ」と彼は言い、少し笑って続けた。
「さっきから、なんで俺の歩幅に合わせてるんですか。後ろでペタペタ変な歩き方するから、気持ち悪いなと思ってたんですけど」
私はM瀬の歩幅になど合わせていない。背が高いのは私で、普段待たせるのも私だ。合わせていたのは、私の後ろにいた何かである。M瀬はその音を、私が立てているものだと思い込んでいた。つまり彼にも聞こえていた。聞いたのは私だけという仮説も、ここで消えた。
月極駐車場の角でM瀬と別れた。彼は走って帰った。そこから私の家まで二分。音は鳴り続けた。「カッ」、0.5秒空けて「ぺた」。立ち止まれば止まる。私は振り向かなかった。幽霊を信じていない人間なら振り向く。
私は信じている。振り向いた先に「見える」ことがありうると知っているから、振り向けなかった。それだけの話だ。
玄関の鍵を開けて中に入り、ドアを閉めた。閉まりきった音の0.5秒後、内側の廊下で「ぺた」と一回鳴った。私はまだ靴を履いたまま、たたきに立っている。音がしたのは、上がり框の向こう、フローリングの側だ。
翌朝、廊下を調べた。足跡も、水滴も、砂粒もなかった。私は、見つからなかったことを根拠に「何もなかった」とは言わない。見えなかったことと、いなかったことは別の命題だ。
反響でも、アルコールでも、M瀬との共同幻聴でも説明のつかない音が、二人の耳に、同じ間隔で、家の中まで届いた。残る仮説は一つしかなく、私はその仮説を最初から信じていた。
信じている人間が、実際に聞いてしまった。この話で一番怖いのはそこだ。
あれ以来、帰宅すると玄関で五秒立ち止まってから靴を脱ぐ。追いつかれるのを待つためだ。追いついてきたことは、まだない。
ただ、その五秒の間、私の後ろで何かが0.5秒だけ遅れて止まっている気配がある。
※画像はイメージです。


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