一八三六年のある日の夜。
元英国海軍軍人フレデリック・マリアットは、拳銃を片手に握りしめ、築二百年になろうかという由緒ある貴族の屋敷「レイナム・ホール」のひと部屋に飾られた油絵を睨みつけていた。
フレデリックの視線の先にあったのは、ここで百年まえに死んだドロシー・タウンゼントの肖像画。
噂によれば、ドロシーは幽霊となって屋敷を彷徨うというのだ。
果たして本当に幽霊は存在するのか?それとも・・・彼は真実を探る為、屋敷に留まり幽霊と対決する。
レイナム・ホールの幽霊
レイナム・ホールは一六三七年に建てられた、現在もつづく英国貴族タウンゼント家の屋敷である。
そして、幽霊が住み着いているという噂が、英国中に広まっていったのあった・・・。
最初に幽霊が目撃されたのは、一八三五年のクリスマス。
タウンゼント一族は政界や財界の有力者たちを招いてパーティを開いたのだが、屋敷に宿泊した何人かの客が、深夜に廊下を彷徨う女性を目撃した。
翌朝、人々が眼をとめのは、屋敷に飾られてある一枚の肖像画で、それに描かれた女性を見たと主張するのだが、女性は百年以上も前に亡くなっていた。
肖像画の女性はドロシー・タウンゼントで、当時の当主チャールズ・タウンゼントの妻であったが、不倫の疑惑をかけられて幽閉され、チャールズの手によって密かに殺害されたという。
それ以来、霊となりレイナム・ホールの敷地内を今でも彷徨っているらしい。
フレデリック・マリアット
イギリス海軍を退き、作家や編集者として名を馳せていたフレデリック・マリアットは、退役した後も海軍やイギリス政府とのパイプは保ちつづけていた。
そんなある日、交流があるタウンゼント一族の者とレイナム・ホールで食事をともにしているとき、マリアットは愚痴を聞かされる。
「ウチには幽霊が現れて安眠を妨害されるから困る」
何度となく戦場を経験したマリアットは、幽霊などという非現実的な存在にしっくりこない。
すこし考えるような仕草を見せ、閃いたように話はじめた。
「密猟を行っている輩どもが、御宅に侵入して嫌がらせをやっているのでは?」
当時、ノーフォーク州では密猟者が跋扈していた。タウンゼント一族は政府中枢だけではなく、ノーフォーク州にも政治家を送りこんでおり、そうした犯罪の摘発に関与していた。
すでにゴシップとなった幽霊さわぎに便乗して、犯罪者たちがレイナム・ホールに忍び込んで嫌がらしているのだろう。
そうマリアットは考え、愚痴をこぼしたタウンゼント一族の人物に提案した。
「調べてみたいから、屋敷に泊まらせてほしい。」
生きた人間の犯罪者であったなら、腕力で取り押さえたらいいと思う反面、ホンモノの幽霊が現れるなら見てみたい、小説の題材として機会があれば幽霊を調べてみたいという好奇心もあった。
たとえどちらであっても、最新鋭のリボルバー拳銃で追い払う算段もある。
ふたつ返事で承諾され、3日間の有余が与えられた。
レイナム・ホール
レイナム・ホールに到着したマリアットは、他ならぬドロシーの肖像画の飾られた部屋で過ごす。
眠るときには、弾をこめたリボルバーを枕の下に隠して。
一日二日と何事もなく過ぎ、三日目の夜を迎えた。
マリアットの滞在期限は明日の朝まで。幽霊はおろか、犯罪者も現れない。
ドロシーの肖像画を横目に、諦めてベッドに潜り込もうとしたとき、誰かが部屋の扉をノックした。
マリアットは扉を開けると、屋敷に住んでいるタウンゼント一族の若者が立っていた。
「夜分にすみません、私の部屋で物音がするので調べてもらえませんか?」
マリアットとタウンゼント家の若者は、暗くて長い廊下をランプ片手に彼の部屋に向かった。
満足に足もとすら見えない廊下を進むなか、マリアットは腰にさげたリボルバーを見せて冗談をいった。
「ドロシーの霊に会ったら、これを使うさ」
対決
マリアットにつられ、若者も笑った。そのときだった。
真っ暗な廊下の奥から、不気味な気配が漂ってくる。背筋に冷たいものが走った。
誰かが、暗闇の中にランプを掲げ、ゆっくりと歩み寄ってくるのが見える。
「誰だ!」
屋敷に住む者かと思い、マリアットは声を張り上げたが返事はない。
沈黙が重くのしかかるなか、次第に、ランプの光が人物の輪郭を照らし出していく。
その姿は、肖像画から抜け出したかのような女性で、ドロシー・タウンゼントその人だが、目に異様な冷たさが宿る。
マリアットは若者に物陰に隠れるように命じ、リボルバーを素早く引き抜き構え、冷たい汗が頬を伝う。
ハンマーを起こし、引き金に指をかけて叫んだ。
「止まれ!動くな!」
鋭い声が廊下に響くーーだが、それでもドロシーは止まらない。リボルバーに怯む気配など微塵もなく向かってくる。
だんだんと距離がつまっていき、ついに手が触れるほどの距離まで近づいた。
よほど幽霊と遭遇してもおかしくない戦場を体験しているマリアットは、幽霊などではなく密猟者の偽装だと確信している。
リボルバーを突きつけ、「まさか幽霊じゃあるまい、そこらの犯罪者だろう!?」と話しかけた。
当たったのか?
ランプの灯がゆらめくと、薄闇の中にドロシーの顔が不気味に浮かび上がる。
虚ろな黒い瞳がギラリと光り、青ざめた顔には生気が感じられない。
それが恐怖によるものなのか、それとも――マリアットは息を呑んだ。
するとドロシーはふっと口元を歪め、「撃てるものなら撃ってみなさいよ」と挑発しているような、邪悪な笑みを浮かべた。
「ドンッ!」
衝動的に引き金が絞られて、リボルバーが轟音を上げる。
閃光が狭い空間を裂き、銃口の先にいるドロシーめがけて弾丸が放たれた。
次の瞬間、ランプが消え、闇がすべてを飲み込こむ。
「当たったのか?」
たしかに銃口はドロシーの顔に突きつけていた。あの距離で撃った弾が外れる事などない。
ましてや彼女が避ける余地などなく、たとえ致命傷を免れたとしても、目の前に倒れもがいているはずだ。
しかし、そこには何もなかった。ただ、深い闇が広がっているだけだった。
マリアットは荒い息を整えながら、足元や周囲を探ったが、どこにもドロシーの姿はない。
血の痕ひとつ残されていない。
「あ、あの・・・マリアットさん?」
背後から震えた声が響いた。
タウンゼント家の若者が壁をさすりながら、何かを指し示している。
マリアットがそちらに視線を移すと、壁にめり込んだ銃弾が目に入った。
「嘘だろ?」
廊下にはマリアットとタウンゼント家の若者、そして静寂だけが残されていた。
ドロシーの祟り
フレデリック・マリアットがドロシーの幽霊を撃ってから、二百年が経とうとしている。
では、マリアットとタウンゼント一族は彼女の「祟り」に苦しめられたのかといえば、そんなことは全くなかったようだ。
マリアットは軍人としても、小説の書き手としての評価も確立して平穏無事に世を去った。
タウンゼント一族もまた健在であり、レイナム・ホールでの暮らしぶりを伝えるwebサイトすらあり、生活はまんざらでもないらしい。
そもそもドロシーは、天然痘で亡くなったので恨みを残す理由など無かった。
レイナム・ホールの幽霊は、イギリス上流階級をめぐるゴシップに過ぎない。
いつの世も噂話に尾ヒレがつくもので、ドロシーの幽霊が体現しているのは人間社会に普遍的にある、妬み・僻み・嫉みといった負の感情が生み出した幻想に他ならないのだ。
featured image:National Portrait Gallery, Public domain, via Wikimedia Commons
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