古来より日本の歴史に名を残した藤原一族、長期にわたって存在感を示したこの一族の系譜について述べてみたいと思います。
藤原仲麻呂
南家出身の藤原仲麻呂。恵美押勝(えみのおしかつ)として、淳仁天皇を擁立し権勢を誇っていたが、孝権太上天皇と不仲になり、西暦764年に戦を誘引した。
戦の初期の段取りなどにおいて基本的なミスがあり、上皇側として戦の采配をふるった吉備真備に、そこをつかれて敗死している。
藤原秀郷
北家出身の藤原秀郷。若い頃は「暴れ者」であり、仲間と一緒に罪を犯して関東に流されたという話があり、関東においても乱行の罪で下野の国府から追討例を出されたという記録がある。
平将門の乱において、連戦連勝の平将門相手に苦戦していた甥の平貞盛の要請に応え、農繁期で平将門が兵を集められない時期を狙って、平将門の本拠地猿島を急襲し平将門を討ち取った。
藤原経清
時代が下がって、奥州における前九年の役の直後、藤原秀郷の後裔である藤原経清は、源頼義に斬られてしまった。
前九年の役の間に二人の間に確執があったのである。
藤原清衡
藤原経清の遺児である藤原清衡は、母方の清原氏に清原清衡として育てられた。後に三年の役において、清原清衡と源頼義とが、清原一族の内紛が原因で一族同士で戦う形になった。その結果、本来の清原一族は滅んでしまったのである。
ところで朝廷は源義家の軍事活動を私の軍事活動とみなし、源義家に対し恩賞を与えなかった。京の公家達と源義家の関係が必ずしも良好ではなかったことがうかがえる。
源義家は、後三年の役で協力してくれた武士達に私費で褒賞を与え、これによって、清和源氏は武士団の間に信頼を培ったといわれている。清原清衡は京の朝廷と巧みに交渉を行い、源義家が気がついたときには、清原清衡は奥州の主としての地位を得てしまっていた。
その結果、清原清衡は広大な清原氏の旧領を全て手に入れ、姓を藤原に戻し、政治の藤原氏の面目躍如となる。
藤原三代のきらびやかな繁栄につないでいった。
滅び
西暦1189年に奥州藤原氏は、清和源氏出身の源頼朝と坂東の桓武平氏とが組むことにより成立した鎌倉軍に、もろくも敗れ滅んでしまった。
藤原泰衡が父藤原秀衡の教えを汲んで、源義経と組んでいれば別の展開になっていたかもしれない。
藤原秀衡が源義経との連携を強く望んだのは、藤原氏の仲間内の情念による結び付きの不充分さという弱点を自覚していたからであろう。
※画像は適当なイメージです。
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