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刀伊の入寇と藤原隆家

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西暦1019年、突然、女真人の大部隊からなる海賊である「刀伊」が、壱岐、対馬、筑前に攻め入ってきました。
公家ながら藤原隆家は正面に立って刀伊と戦い撃退し、平安最大の危機を回避したのです。

目次

藤原隆家とは

北家出身の藤原隆家は、西暦979年に生まれ西暦1044年に逝去した公家であり、摂関政治で有名な藤原道長の甥にあたります。

朝廷における貴公子でありながら「荒くれ者」と呼ばれていました。
時の花山法皇の邸に手勢を連れて押しかけ狼藉をはたらき、出雲権守に左遷されるが大赦があり西暦1002年に以前の権中納言に復します。
その後、眼の持病を治療できる宋の医師を探す目的もあって太宰権師を望み、その地位に任ぜられたのでした。

藤原隆家は勇敢で善政を敷いたため、現地の人々から人望があったという。
扇の骨の自慢としてクラゲの骨に関する話のやり取りが藤原隆家との間でなされている。つまり、骨のないクラゲの骨を自慢することは、どだいあり得ない話であるが、双方の間で漫才のような話のやり取りがなされたということである。藤原隆家は、このような茶目っ気も備えた明るい人物であったようです。

刀伊の入寇

西暦1019年、高麗を襲った女真人の武装した海賊が50艘の船を連ね、壱岐、対馬、筑前に来襲しました。
老人子供は殺し、壮年者は奴隷として売るために船に追い込み、家畜を殺して食い、穀物を奪った。住民のうち、殺された者は400余人で捕らえられたものは1000人を超えたのでした。
この事件は我が国の太平の夢を醒まし、「刀伊の入寇」と呼ばれるようになったのです。

このとき太宰権師であった藤原隆家は、京へ飛役使により通報する一方、大宰府官人を警護所に派遣し防戦にあたります。つまり、もう少し後世であれば武士がやるべき仕事を引き受けて勇敢に戦ったのです。

京よりの司令をまたずに実行された現地住人達の奮戦もあって、約一週間で刀伊は日本近海から退散。
藤原隆家は平安の日本を守ったヒーローなのです。

※画像はイメージです。

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