もうだいぶ昔、小学三年生の秋のことです。
その日は朝から雨で、昼休みの校庭が使えませんでした。教室にいると男の子たちが机を寄せてプロレスを始めるので、私は図書室に逃げたんです。図書室は一階の一番奥にあって、床がちょっとだけ傾いていました。筆箱を置くと、ゆっくり端まで転がっていくくらいの傾きです。
雨の日でも図書室はいつも空いていました。カウンターには図書委員の六年生が一人いるだけで、頬杖をついたまま半分眠っています。窓ガラスは曇って、石油ストーブの匂いと古い紙の匂いが混ざっていて、私はあの匂いがけっこう好きでした。
借りたのは、あの頃に流行っていた学校の怪談を集めた本でした。窓際の席に座って、トイレの花子さん、動く二宮金次郎、音楽室のベートーヴェン、と読んでいきました。どれも友達から聞いたことのある話ばかりで、半分くらい読んだところで少し飽きてきました。花子さんの話なんて、クラスの女の子の半分は知っていて、みんなトイレに一人で行けなくなっていたくらいです。
ふと顔を上げたら、三番目の本棚の下から二段目に、背表紙が上下さかさまの本が一冊だけ入っているのが見えました。
私は昔から、几帳面な性格なので、ノートの角が折れているとすぐ直すし、給食のお盆が斜めに置かれているのも嫌で、棚の前まで行って、その一冊を抜きました。「ぐりとぐら」でした。ひっくり返して、ちゃんと背表紙が読める向きにして差し込んだんです。
本が収まる、こと、という小さな音がしました。
その瞬間、雨の音が消えました。遠くの教室で男の子がドスンと倒れる音も、石油ストーブのカチカチいう音も、何も聞こえないんです。さっきまで半分眠っている図書委員の気配もありません。背中のすぐ後ろで、誰かが小さく息を吸いました。
動けずにいたら、肩にそっと何かが触れました。冬の朝に外から帰ってきた妹の手くらい、冷たい手でした。トントン、と二回、叩かれました。
ふりむけなくて、目をぎゅっとつぶったまま固まっていたら、耳のすぐそばで声がしました。
「まだ、とちゅう」
小さい、小さい声でした。叱るというより、ちょっと口をとがらせているような言い方でしたね。
私は思いっきり頭を下げて、「ごめんなさい!」と叫びました。
目を開けたら、誰もいませんでした。雨の音が戻っていて、手には怪談の本だけが残っていました。カウンターの六年生は、さっきと同じ格好で口を開けて寝ていました。棚の三番目の下から二段目では、『ぐりとぐら』がさかさまに入っていました。私は直さずに、そのまま教室へ帰りました。
教室では、プロレスをしていた男の子たちが先生に怒られている最中でした。私は何も言わずに自分の席に座りました。
放課後、一人で図書室に戻りました。「ぐりとぐら」は、やっぱりさかさまのままでした。そっと抜いて、最後のページの裏に貼ってある貸出カードを見てみました。名前の欄には、鉛筆で書いた同じ名前が、上から下までずらっと並んでいました。丸っこくて、たどたどしい字で、私の知らない名前でした。日付の欄は、全部空いていました。
私はそのカードを元に戻して、本も、さかさまのまま棚に戻しました。
その晩、お風呂で髪を洗っていたら、目をつぶるたびに肩のあたりが気になってしかたがありませんでした。夕ごはんのときに母に話してみたものの、「図書室の本は読んだらちゃんと返すのよ」と、まるで見当違いの返事をされて終わりました。でも布団に入るころには、怖いというより、あの小さな声の、ちょっと拗ねたような言い方ばかりが頭に残っていました。
それからしばらく、私は昼休みになると図書室へ通うようになりました。
三番目の本棚の前を通るたびに横目で見るのですが、「ぐりとぐら」はいつもさかさまのままで、こちらを向いて何か言いたそうに、ほんの少しだけ棚から飛び出していました。ある日、思いきってカウンターの六年生に「あの絵本、誰か借りてますか」と聞いてみたんです。その子は貸出の帳面をぱらぱらめくって、「ずっと誰も借りてないよ」と言いました。
それから卒業するまで、その本はずっとさかさまでした。誰かが直した日があったのかもしれませんが、次に見に行くと、いつもさかさまに戻っていました。
※画像はイメージです。


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