ヘール・ボップ彗星が地球に最接近した1997年3月下旬、カリフォルニア州サンディエゴ郊外の豪邸で39人の男女の遺体が発見された。
死んでいたのは、UFOを信奉する終末カルト「ヘヴンズ・ゲート(Heaven’s Gate)」の教祖と信者たちである。
同団体は、最後の集団自殺さえなければ、カルトとしてはまだましなほうだろう。自殺者全員が死を望み、幸福感に包まれて旅立っていったという点も注目に値する。
待ちこがれた彗星は、たしかに出現した。彼らの魂は宇宙船にテレポートすることができただろうか。
天国の門
かつて米国で活動していたヘヴンズ・ゲートは、ヨハネの黙示録とニューエイジ運動とSFが融合した教義をもつ、奇々怪々な宗教団体だった。そのためか、UFOカルトと分類されることもあれば、ドゥームズデー・カルトと呼ばれることもある。教祖は一人ではなく創設者の男女二人で、サンディエゴを拠点としていた。
黙示録が意味するところは地球のリセットで、今まさにそのときを迎えており、人類が生き残る唯一の道は地球から避難すること ——彼らはそう信じていたのだ。
1996年5月、ヘール・ボップ彗星が地球に近づき、肉眼で確認できるようになる。同年11月、アマチュア天文家が撮影した写真に彗星の後方を飛来する謎の物体が写っているという流言が流れた。「これは地球外生命体の宇宙船にちがいない」。UFO愛好家がそう主張するだけでは終わらず、話はマヤ暦の「2012年人類滅亡説」に結び付けられるほどの発展をみせる。
彗星の到来を待ち望んでいたヘヴンズ・ゲートは、ついに「そのとき」がきたと確信した。この謎の物体こそが宇宙船であり、ようやく「天の王国」からUFOが迎えにきてくれたと考えたのだ。彼らにとって、人間の肉体は魂の入れ物にすぎない。集団自殺は魂を肉体から宇宙船に移し、より高いレヴェルの世界に旅立つための行為だった。
集団自殺
1997年3月下旬、教祖アップルホワイトと38人の信者は高級住宅地ランチョ・サンタフェの住宅で集団自殺をとげた。
事件現場はプールとテニスコート付きの豪奢なスペイン風の大邸宅。彼らはここを借りて共同生活をしていた。教団の運営資金は信者の寄進ではなく、みずから立ち上げたウェブサイト構築会社の収益で賄われていた。
第一発見者の通報により、サンディエゴの警察が最初に現場に立ち入ったのは3月26日。通報者は元信者の男性で、「教団から送られてきた手紙とビデオで顚末を知った」と証言している。
死ぬ直前、彼らは身体を清めるために柑橘系のソフトドリンクを飲んだ。それから睡眠剤を混入したウォッカを大量に摂取し、全員がビニール袋をかぶった。死因は頭からビニール袋をかぶったことによる睡眠中の窒息死。争った形跡や外傷は一切なし。発見時には全員が自分のベッドにきちんと横たわった状態で、上半身が紫の布で覆われていたという。
奇妙なことに、荷づくりしたトランクが一人ひとりのわきに置かれ、すべての遺体のポケットに5ドル札1枚と25セント硬貨が入っていた。39体はみな黒いシャツにスウェットパンツ、新品のナイキのシューズというおそろいの死装束で、腕には“Heaven’s Gate Away Team(ヘヴンズ・ゲート上陸班)”と記された腕章をしていた。
また、教祖と数名の男性信者は、死後の性別のない世界に備えて去勢手術を受けていたことも明らかになっている。
この集団自殺は全員が同時に死んだわけではなく、複数のグループに分かれ、3日間にわたって段階的に決行された。決められた順番通りに命を絶ち、次のグループがその後始末をするという段取りまで決められていたのだ。
遺体発見の時点では、集団自殺の実態について当局もメディアもよく把握できていなかった。ほどなくして、彼らが70年代から活動していたUFO教団で、UFOサークルではよく知られた存在だという事実が判明する。
二人の教祖と伝道活動
マーシャル・アップルホワイトと彼のソウルメイト、ボニー・ネトルズがたどった人生は、まさに三流SF小説のようだった。
教団設立前、アップルホワイトは大学の音楽講師で妻子がいた。しかし、男子学生との同性愛スキャンダルで職を失い、妻は子どもたちを連れて出ていってしまう。
ノイローゼに陥った彼の前に現れたのが、4歳年上の看護師ボニー・ネトルズだった。神智学やオカルトの知識をもっていたのは神智学協会会員であったネトルズのほうである。
二人はすぐに、精神医学者が「狂気」と呼ぶ強い絆で結ばれる。アップルホワイトは「彼女とは前世でも知り合いだった」と言い、ネトルズは「あなたには神から使命が与えられている」と彼に訴えた。ほどなくして彼らはともに暮らしはじめるが、そこに性的関係はない。やがて彼らは、「自分たちは地球に降りかかる悲劇的な審判を警告するという特別な使命をもって地球に送り込まれた」と信じるようになり、みずからをヨハネの黙示録11章3節にでてくる「二人の証人」になぞらえた。キリスト教とニューエイジ運動とSFの要素を取り込んだ奇怪な教団を立ち上げたのは1974年のことだ。
こうして二人は自分たちの思想を広めるための伝道活動に乗りだす。
「聖母マリアは処女懐胎したのではない。UFOによって地球外に連れて行かれ、妊娠させられて帰還したのだ」
「肉体は魂が運転する乗り物にすぎない。修行を積めば魂は次のレヴェルへ、天国へ行ける」
ヘヴンズ・ゲートの独自の思想はSF好きな若者やUFO愛好家の関心を集め、メディアにも注目されるようになるが、アップルホワイトはこれを快く思わなかったらしく、BBCがドキュメンタリー番組のために教団に接触した際に修行の妨げになるとして取材を拒否している。
教団の教義
最盛期には数百人の信者を抱えていたヘヴンズ・ゲートだが、その教義の要は「個人の霊的な成長」だった。人間は、より高次の魂に進化しなければならず、地球はそのための修行の場であるという考え方だ。男性のほうの教祖さまはこんなことを言っている。
地球人を見守る「天の王国」の宇宙人は、2000年前にイエスを地球に送り込んで真理を伝えようとした。もちろんイエスは地球外生命体である。しかし、人間は真理を受け入れようとしなかった。審判が下るのはこのことによる。
人類の堕落の陰には「天の王国」から脱落したルシファーの企みがある。人間を高次元のレヴェルに覚醒させないように、現在の宗教・倫理をつくりあげたのはルシファーとその信者だ。
自己の高みをめざし、「ネクスト・レヴェル」に到達するには人間臭さ克服しなければならない。物欲や性欲などは、人間の未熟な部分の最たるものである。
アップルホワイトによれば、宇宙人に性別はないという。性愛禁止の生活は、ことに男性信者にとっては耐え難く、この苦痛を解消するために彼を含む数名が去勢するという極端な行動にでている。
また、集団自殺をしたにもかかわらず、教団は基本的に自死を認めていなかった。自殺は高みへの到達、つまり進化にそむく行為とみなされていたからだ。
宇宙への関心が高まった時代に誕生した教団ではあるが、当時は宇宙に関して未解明な部分も多かったという背景がある。
ネトルズの死
1985年、女性教祖のネトルズが癌のため死去する。
彼女の死後、アップルホワイトは偏執病を発症し、教団に対する陰謀に神経をとがらせるようになった。信者たちには「ネトルズは肉体を捨ててネクスト・レヴェルに旅立った」と説明したが、今にして考えると、ソウルメイトの死が教団を破滅に導いたのはまちがいない。
活動初期から入信していた古参信者のなかには教義に疑問を抱く者もでてきた。教団をやめたいと申し出る信者に対して、アップルホワイトは「きみはそうデザインされたのだね」と理解を示し、その意志を尊重した。
このころから彼は、「次のレヴェルに行くときが早まった」と頻繁に口にするようになる。一人また一人と去っていく信者たちを見送りながら、本当のところは焦りを感じていたのかもしれない。
1996年、教団は事件現場となったサンディエゴ郊外に移り住む。アップルホワイトは相も変わらず「もうすぐ地球がリセットされる。その前にここを去らなければならない。これは最後のチャンスだ」と説いていた。
待望の彗星現る
教団の教義によれば、「天の王国」から宇宙人がやってきて地球はリセットされる。「リセット」とは完全な終わりではなく、新たなはじまりでもある。
1997年3月、アップルホワイトは地球に接近したヘール・ボップ彗星を「合図」とみなして信者に告げた。
ようやく「天の王国」からUFOが現れた。今こそわれわれが王国へ引き上げられるときなのだ。われわれは霊的な存在、つまり魂のみとなり、地球から旅立つことで生き残る。
自殺直前の3月19日に収録されたアップルホワイトのメッセージ映像が残っている。そのなかで、彼はくり返し地球の終末を説く。目を見開き、カメラを凝視して、なにかに憑かれたように語る表情はまるで狂気そのものだ。
彼らがこのストーリーをどこまで信じていたのかは不明だが、少なくとも教祖と38人の信者は宇宙船に魂を乗せるために自殺を決行した。
39人はレストランで最後の晩餐をとる。ウェイターはこのときのようすをこう語っている。
「みんな同じ服を着て、同じものを食べてたよ。ターキーパイ、サラダ、チーズケーキにアイスティー。ありきたりなメニューだね」
「みんなにこやかで礼儀正しく、楽しそうにしていて、とても集団自殺をするようにはみえなかった」
みんなで「さよならビデオ」
アップルホワイトだけでなく、信者たちも自殺前にビデオメッセージを撮影している。彼らは穏やかに微笑みながら、幸せそうに語る。
「この日のために、みんながんばってきた。とてもうれしい」
「人生でいちばん幸せな日」
「ぼくを助けてくれ、守ってくれたドゥ(アップルホワイト)とタイ(ネトルズ)にどれほど感謝しているかを言いたいだけ」
肉体という器から解放され、終末を迎える地球から逃れることをいかに熱望しているかが伝わってきて、言葉を失う。この信じがたい映像が示しているように、彼らは自分たちの行為に揺るぎない信念を抱いていたのだ。「イカれた教祖に洗脳されて殺されたのだ」と遺族は言うにちがいないが。
信者には厳しいが、自分には甘いというイメージが先行しがちなカルトの教祖だが、アップルホワイトはみずからも去勢するほど教義には忠実で、信者に尊大にふるまうこともなかった。
また、カルト教団は脱退を許さず、どんな手を使ってでも阻止する傾向にあるが、彼は脱退の意志を受け入れた。ヘヴンズ・ゲートは脱退者に金銭的援助をするカルトだったのだ。
幸いにも、日本では「信教の自由」が憲法第20条で保障されている。しかし、昨今はカルトにみえないカルトもめずらしくない。宗教カルトのなかには信者の財産のみならず、生命にも手を伸ばす教団があることを忘れてはならない。
宗教をよりどころにするとき、あなたの大切な人々、たとえば家族や友人や恋人を代償にするべきではない。もしその宗教が誰かとの関係を犠牲にすることをあなたに強いたなら、それはあなたを搾取する宗教である。
カルトに取り込まれる危険性が高いインターネット社会では、すべてを自分の意志で決定していると勘違いしてしまうのは誰にでもありうることなのだ。
※画像はイメージです。
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