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古代戦争・白村江の戦いに隠された歴史の真実とは?

令和の時代が幕を開けた。大化から数えて248番目の元号だそうだ。
730年、大宰府の長官の屋敷で催された梅の花を愛でる宴を詠んだ漢文が出典らしい。「春のよい月になった。空気がよく、風も和らいでいる」。風の和らぎは春の訪れだけのせいではないだろう。

遡ること約70年、亡国の危機に瀕した歴史的敗戦があった。白村江の戦いに神風は吹かなかった。戦後、男たちが苦役に駆り出された。防人だ。やがて情勢が安定し外患がなくなり、ようやく苦役は廃止された。

そんな中で開かれた饗宴だったのだ。

「白村江の戦い」とは・・・
白村江の戦い(はくそんこうのたたかい、はくすきのえのたたかい)は、天智2年8月(663年10月)に朝鮮半島の白村江(現在の錦江河口付近)で行われた、日本・百済遺民の連合軍と、唐・新羅連合軍との戦争のことである。

引用: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 白村江の戦い より

目次

白村江の不思議

日本古代史には謎が多い。大国・唐に軍事的大敗北を喫したことは、国家存亡をめぐる一大事だったはすだ。ところが正史は多くを語らず、外交上の失策程度にとどめるのみ。白村江の戦いの謎をいくつか挙げてみる。

1. 敗戦国が不明瞭
2. 戦争責任者が不明瞭
3. 戦後処理が不明瞭
4. 戦前・戦後で日本列島の宗主国が交替している痕跡あり

これらのことから、ひとつの仮説が導かれる。正史・日本書紀は、実は列島がまだ統一国家ではなかった頃を記述した史書ではないか。唐と交戦したのは大和朝廷ではなく、その国は敗戦によって滅亡へ向かった。

新たな宗主国となった大和朝廷はその史実を隠蔽した。なぜか。
神代より、大和皇統を唯一無二の正統な列島の統治者とするために。

「日出ずる処の天子」は誰?

大和朝廷責任編集・日本書紀は、「倭国は日本国のかつての亦の名」とする。一方、中国の正史・旧唐書には、倭国と日本国は別の国と記述されている。

倭国とは九州王朝・倭国のこと。古来、中国歴代王朝に使節を派遣してきた国で、金印が有名だ。倭国を訪れた使者・裴世清(はいせいせい)も、倭国の詳細を記している。阿蘇山。倭国王の姓は阿毎(あま)、字(あざな)は多利思北弧(たりしほこ)。妻は鶏弥(きみ)。西暦600年、隋書の記録だ。アマタリシホコは男帝だったらしい。しかし日本書紀によれば、時は推古女帝の治世。皇太子は聖徳太子。

アマタリシホコは、「日出ずる処の天子が、日没する処の天子にお手紙するよ。変わりない?」(※現代語訳は意訳かつ時代を超越しています)という対等外交モードの国書を送り、煬帝を激怒させた人物。この誇り高い、堂々たる国書については、大和朝廷推薦図書・日本書紀ではつまびらかにされていない。

通説では、この国書の送り主は聖徳太子とされている。歴史は勝者が書くというが、それは自国限定の話だ。他国については国交や軍事上の見地から記録に正確さが求められる。嘘を書く必要がないのだから、ここは中国の正史に一票を入れたい。

敗戦国は大和朝廷ではなかった?

白村江の戦いの不思議に戻ろう。

戦争時の国家元首・軍最高司令官は中大兄皇子。ところがこの人物は敗戦後も大和の元首であり続け、天智天皇となった。唐との関係も悪くなかった。かたや拘束され、唐に抑留された者たちもいた。

その中の一人が筑紫君・薩夜麻(さちやま)。「筑紫の君」の称号は「九州の君主」を意味するのだろうか。そして、大宰府や軍部の吉野ヶ里に進駐した戦勝軍の記録。おそらく彼らは大陸ルールにのっとり、王墓を暴き、破壊しつくしたのだろう。

近畿地方の古墳は危害を加えられていない。
これらが物語るのは、敗戦国は倭国であり、倭国が唐の占領下におかれたということだ。

戦後処理によって日本列島の覇権が九州王朝・倭国から日本国・大和朝廷に移譲したと仮定すると、中国の正史の記述と整合する。これを否定する材料はただひとつ、わが国の正史・日本書紀にそう書かれていないということだ。

日本書紀は、時空を超えるマジックのような歴史書だ。後世の日本人の国家観を作り上げてしまった。
日本史上最高の天才は、もしかしたら藤原不比等かもしれない。

※写真はイメージです。

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