北の大地の開拓の歴史の中で多くの人命をヒグマの手によって奪われてきた。
なぜヒグマは人間に牙を向けるのか。
そして私たちはこれからもヒグマに狩られる恐怖に怯えながら暮らしていかなければならないのだろうか。
札幌丘珠ヒグマ事件
冬の北海道の山中に静寂を破る銃声が響いた。
1人の猟師が冬ごもり中のヒグマに向けて銃を放ったのだ。
この一発の銃声が人食いヒグマの目覚めの合図になるとも知らず、そして自らの死すら、これから始まる惨劇の序章に過ぎないとも知らずに。
惨劇のきっかけ
1878年(明治11年)1月11日、猟師・蛭子勝太郎は現在の北海道札幌市にある円山の山中で冬眠中のオスのヒグマを見つける。
寒い中歩き回ってようやく見つけた獲物に興奮を押さえつつ、早速と冬ごもり中のヒグマに照準を合わせて銃を放った。しかし、あろうことか勝太郎は獲物を捕り損ねてしまう。
そして冬ごもりを邪魔する無粋な行為は当然ヒグマの逆鱗に触れた。
勝太郎はヒグマの返り討ちに会い、殺される。
冬眠を無理矢理に妨げられ、激高したヒグマは人の住む札幌市街地に向けて走り出してしまった。
ヒグマの逃避行
殺人ヒグマの発生を受けて、駆除隊が編成されヒグマの追跡が開始された。
ヒグマは円山から豊平川を渡り、平岸村(現・札幌市豊平区平岸)、月寒村(現・豊平区月寒)、白石村(現・札幌市白石区)へと移動。
駆除隊も雪に残された手がかりを頼りに、ヒグマが再度豊平川を渡り、雁来(現・札幌市東区東雁来)にやって来たところまでは足取りを追うことができたものの、天はヒグマに味方する。
駆除隊を猛吹雪が襲い、ヒグマの痕跡をことごとく消し去ってしまったのだ。
札幌市といえば、今でこそ人口195万人を数える日本有数の大都市であるが、事件当時は本州から移住した和人が定住しはじめて20年、開墾と開発の真っ只中という時期。
人口は今に遠く及ばず、現在の札幌市中心部にあたる「札幌区」と呼ばれたエリアで約3,000人、その後に札幌市に含まれることになる周辺の農村すべての人口を合計しても約8,000人に留まっており、まだ未開拓の森林が広がる状況も相まって「田舎」と称して決しておかしくない土地だった。
駆除隊の追撃を躱したヒグマは雁来から西に進路を取り、惨劇の舞台となる丘珠村(現・札幌市東区丘珠町)へと向かった。
一家を襲った悲劇
丘珠と言えば、今でこそ丘珠空港を有する開けた場所だが、事件の当時は森林地帯のただ中にあって数百ほどの村民が粗末な小屋に暮らし、木炭を作ってなんとか生計を立てているような土地だった。
そんな丘珠村に暮らしていたのが、堺倉吉(事件当時44歳)とリツ(当時36歳)の夫婦、それにまだ乳飲み子だった留吉の一家だ。暮らしぶりは周囲と同じく厳しかったものの、待望の長男も生まれて貧しいながらもささやかな幸せに包まれた生活を送っていたようだ。
しかし、そんな一家の日常は唐突に終わりを迎える。
1月17日深夜、散々札幌を歩き回り空腹と人間に対する怒りを湛えたヒグマが堺家に襲い掛かったのだ。
家の異変に真っ先に気が付いたのは、家長の倉吉だった。
何事かと起きだして、戸と呼ぶにはあまりに粗末なむしろをめくると、ヒグマと遭遇。
突然の来訪者からの強烈な一撃を受けて倉吉は昏倒する。
一緒に家の中にいた妻のリツは我が子を抱いてすぐさま逃げ出したものの、ヒグマの追撃のスピードに人の足で敵うはずもない。彼女は追い付いたヒグマに後頭部を爪で抉られ、頭皮を剥ぎ取られてしまう。あまりの衝撃にリツは最愛の息子を取り落してしまった。
家族を救うべく、リツは自身も重傷を負いながらも、なんとか近所の雇い人に惨状を伝え助けを求める。
だが時すでに遅し、昂った獣が雪原に投げ出された幼子に憐憫など抱くはずもない。
ヒグマは抵抗する術すら持たない留吉を歯牙に掛け喰い殺し、ついで倉吉も胃に収めるとその場を去っていった。
ヒグマの顛末
勝太郎、倉吉、留吉を相次いで殺害したヒグマ(なお、丘珠にてもう1名男性を殺害したとする資料もある)は事件翌日の18日、堺家付近にいたところを捜索を続けていた駆除隊に発見され射殺された。
射殺後は人食いクマとしてしばらく衆目に晒された後、札幌農学校で解剖される運びとなった。
解剖してみてわかったのが、この人食い獣が体長190㎝という巨体でありながら、ほとんと脂肪を蓄えていたなかったということだ。
通常、ヒグマは冬眠に向けて秋のうちに食いだめをするはずなのだが、どうやら当該のヒグマはこの冬眠準備に失敗したらしい。そんな最中に人間に無理矢理起こされ、穴から出たはいいものの雪の中でエサも見つけられなかったことにより、気が立ち、敵である人間を攻撃。
食人行為については、食うために人間を殺したというより、殺した時に空腹だったために食害に及んでしまったと推測できる。
ヒグマの解剖
さて、このヒグマの解剖は教授の指導の下、実習の一環として学生たちが行った。
解剖対象としても珍しい素材である一方で、食材としても珍しいヒグマ。
学生たちは興味本位でこっそりヒグマの肉塊を切り出し、指導教授の目を盗み実習の合間の休憩時間に炭火で焼いて食べていた。
食べてみての大方の感想としては、「肉が臭くて堅い」だったようだ。
本来、ヒグマの肉は旨味が強くおいしいジビエの代表とされているが、調理に色々な処理や工夫が必要とされている。
そんな熊肉の調理法をなど理解しないまま食したものだから、熊肉特有のおいしさを感じられなかったのだろう。
やがて休憩も終わり、解剖が再開される。
ヒグマの腹を切り開き、内臓切開にとりかかったところで、学生の1人が大きく膨らんだ胃袋にメスを入れるとドロドロと胃の内容物が溢れてきた。
なんらかの布片やどこかの家の軒先かなにかから盗み食ったのであろう縄付きのままの鮭の頭、まさにヒグマの逃避の変遷を物語るような中身だ。それらが飛び出し後、ずるりと出てきたのは女の長い髪が付いた頭皮や噛みちぎられた男性の頭の断片、赤ん坊のかわいらしい手や噛み刻まれた腕の断片だった。
この時になって、自分たちが解剖しているのが食人行為に及んだクマなのだということをようやく理解したらしい若者たちは突如露わになった惨状に阿鼻叫喚となった。
そして問題は先程、嬉々として熊肉を頬張った面々だ。
彼らは弾かれたように解剖室を飛び出すと先ほど味わった肉を無理矢理に吐き出した。
解剖前から学生達がヒグマの素性は知っていたのかは定かではないが、これから自身が解剖する対象について、詳細を知らなかった可能性は低いだろう。
食ったものはすでに消化されていると高を括ったのだろうか。
よくぞ食べてみようなどという欲をだしたものだ。
石狩沼田幌新事件
熱の残る夏祭りの夜、華やいだ気分でそぞろ歩く一家は突如としてヒグマの強襲を受ける。
ヒグマは逃げる一家を執拗に追いかけては次々と歯牙に掛け、屍に変えていった。
ヒグマはなぜ、この家族にそこまで執着したのだろうか。
祭りの夜の凶行
1923年(大正12年)8月21日、北海道沼田村(現・沼田町)では祭が開催されていた。
まだまだ娯楽や遊興の機会が少なかった町の祭には多くの人々が集まり、さぞや興奮しただろうことは想像に難くない。
そんな祭も日付が変わる前にはお開きとなり、参加した銘々は帰宅を急いでいた。
その中に父、村田三太郎(事件当時58歳)、母、うめ(当時55歳)、七男、輿四郎(当時15歳)、八男、幸次郎(当時13歳)の村田一家と知人の林謙三郎(当時19歳)の一団がいた。
一団の中で林は用を足すため、村田一家から50m程離れた後ろを歩いていた。
林は祭の余韻そのままに完全に油断して歩いていたはずだ。
そんな彼の背後から突如としてヒグマが襲い掛かった。
まさかこんな場所でヒグマに出くわすなど思っても見なかったであろう林青年はそれでも運良く一撃での即死は免れた。そして若い男性という利を活かして力の限りに暴れ回ってヒグマに立ち向かい、衣服を破られ傷を負いながらもなんとか暴虐の王から逃げることに成功する。
彼は前を歩いていた村田一家に大声で危険を報せたが、時はすでに遅かった。
林から村田一家に狙いを変えたヒグマはその巨体に似合わないスピードで一気に追い付くと、一団の先頭を歩いていた少年、幸次郎を撲殺。
さらに兄の輿四郎に襲い掛かり重傷を負わせると、突然のヒグマの出現と凶行にパニックとなった父母の目の前で幸次郎をむしゃむしゃと食べ始めたのだ。
闇夜に聞こえる念仏
愛する息子を助けることもできず、村田一家と林の一団は命からがら襲われた場所から300mほど離れた場所にあった木造平屋建ての持地乙松宅に逃げ込んだ。
なんとか逃げ込んだはいいものの、鼻のいいヒグマが隠れ場所を見つけるのは時間の問題。
面々は急いで囲炉裏の火をより大きく焚き、屋根裏や押し入れにその身を隠してヒグマの強襲に備えた。
一方のヒグマは幸次郎の肉と内臓を味わい、綽綽とした様子で持地宅に現れた。
家に体当たりしたり、咆哮をあげてみたりといった獣らしい登場ではなく、窓から家の中を窺がうようにして現れたというのだから、中にいた人々はより一層胆が冷えただろう。
木造平屋というクマ相手に心もとない造りの部屋の中はたちまち恐怖に包まれた。
ヒグマはなんと玄関を探し当て、そこから侵入を試みている。
これ以上の犠牲を出すまいと村田家の父・三太郎は必死に内側から戸を押さえて抵抗したが、巨大な獣の力に勝てるはずもなく、ヒグマは三太郎ごと戸を押し倒して家の中に侵入。
まるで嘲笑うがごとく、希望の光であった囲炉裏の炎をいとも簡単に踏み消すと、眼前で夫と子を襲われた恐怖に震えていた母・ウメに目を付け咥え上げた。
自身も重傷を負いながらも妻を奪還すべく、三太郎は必死にスコップを叩きつけて戦ったが、北の覇者の前では児戯に等しい。
ヒグマはウメを連れ去った。
ウメの助けを呼ぶ悲壮な叫び声がしばらくは闇夜にこだましていたものの、その声はやがて囁きのように唱えられる念仏に代わり、最後には無音となった。
妻を子を救うことができなかった三太郎の絶望はいかほどのものであっただろうか。
対抗できる武器もなく、かつ火をも恐れぬヒグマ相手に残された人間ができることと言えば、ただ焦燥と恐怖を抱いたまま室内で夜明けを待つことだけだった。
祭りの翌日のなる22日夜明け頃、昨晩に起きた惨劇など露ほども知らない村人がたまたま持地宅のそばを通りかかった。
家の中で軟禁状態をなっていた一行は、この村人から付近にはヒグマが見当たらないことを聞き、ようやく外に出られた。面々は急いでウメの行方を探したが、近くの藪の中から見つかったのは下半身を食いつくされた哀れなな女性の遺体1つだった。
ヒグマとの攻防
熱に浮かされた祭りの夜に、ヒグマによって2人が喰い殺されるという凶事はすぐさま町中を駆け巡った。
23日には近隣の村や集落から猟師らが集まり、悪魔を討ち取るべくヒグマ捜索が開始された。
そんな中、再び悲劇が起きてしまう。
我こそが熊を仕留めようと勇み1人で山に入った男性(56歳)が数発の銃声を響かせた後、行方がわからなくなったのだ。
もう一刻の猶予も残されていない。
24日には応援部隊の数がさらに膨れ上がり、沼田村史上最大規模の討伐隊が打倒ヒグマを掲げて山へと分け入った。
事態が動いたのは入山直後だった。
討伐隊の背後から前触れもなく件のヒグマが出現し、討伐隊の最後尾にいた男性(57歳)に一撃をくらわせる。
男性はほぼ即死だった。
大人数を見て興奮したヒグマはさらにもう1人の男性にも襲い掛かり重傷を負わせ、なおも暴れ回った。
討伐隊も始めこそ突然のヒグマの出現にパニックになったものの、隊員の1人が放った銃弾がヒグマに命中したのを皮切りに一団は一斉射撃を開始する。
森の覇者と言えど、こうなっては為すすべもない。
村を悪夢に陥れたヒグマはついに息を引き取った。
なぜヒグマは人を殺したのか
その後の捜索でヒグマ射殺現場のすぐそばで23日に消息を絶っていた男性の遺体が見つかった。
腹を食い破られた村田幸次郎、下半身を食いつくされた村田ウメ同様、彼もまた文字通りヒグマの餌食となっており、残されていたのは頭部だけであったという。
撲殺された討伐隊の男性を含め、この事件での被害者は4名にもなり、沼田村が沼田町に変わった現在においても町の歴史において類を見ない残忍な凶行となってしまった。
撃ち取られたヒグマは後に解剖されることになる。
体長2 m、体重200 kgという巨大なオスのヒグマの体内からは大ざるに山盛りとなるほどの人骨と消化しきれなかった人間の指が出てきたとされている。
1人1人が全身を食べられているわけではないとはいえ、22日の深夜から23日の約1日の間に1.5人分程の人間を平らげたのだ。
このヒグマの食欲と人間への執着は恐ろしいものがある。
では、なぜヒグマは人々に襲い掛かったのか。
実は村田家一行が祭りの帰りに通った道のそばには、馬の死体が埋められていた。
この馬の死体を埋めたのは本件のヒグマだとみられている。
ヒグマは一度に食べきれなかった獲物に土や枯枝葉をかぶせて土饅頭と呼ばれる土山を作ってエサを保存しておく習性がある。この土饅頭の中のエサは獲物を狩ったヒグマのものであり、徐々に食べつつ他者に奪われないよう付近で警戒している。
今回、この馬の死体を隠した土饅頭のそばを村田家一行が通りかかったため、ヒグマは一家らを自分の獲物を奪う敵と見なし、人間側からすれば「いきなり」襲い掛かったのだろうと考えられる。
馬を食っていて肉食にさほど抵抗のないヒグマだったこともあり、人間を暴力で排除するだけでなく、食害にも及んだのであろう。
ヒグマのエサへの執着の強さが引き起こした事件といっても過言ではない。
ヒグマとはどんな生き物なのか
時に人間に甚大な被害を及ぼすこともあるヒグマ。
このヒグマとはどういった生物なのだろうか。
ヒグマはアイヌ語でキムンカムイ(山の神)と称されている。
オスであれば体長3m、体重600kgになることもある巨体と、時速50kmに達するスピードで森を走り抜け、鋭い爪や強靭な顎で一度戦えば他を圧倒する身体能力を持つ、まさに北海道という北の大地の覇者だ。
この身体的特徴だけをとっても人間にとって恐ろしい存在であることに違いないのだが、加えて恐れるべきは、加えて高い知能を有してる点と性質上の特徴である執着心だ。
当然個体差はあるだろうが、とある研究によればヒグマにはイヌと霊長類の間程度の知能が備わっているとも言われている。警戒心が強いながらも好奇心を持ち合わせた生物であり、それゆえの行動で得た成功や失敗を学習した上で長期的に記憶することができる。
例えば人家の庭に植えられた柿の木を見つけて実を採ることに成功すれば、翌日でも1週間後でもその経験を覚えていて再び実を採りに来るし、クマによっては冬眠を経た翌年になっても記憶していることもある。
その上、子グマは成長過程で母グマと一緒に行動し生きる術を学ぶ中で、食の傾向も受け継いでいく。雑食性とはいえ、大半のヒグマが草食、ないし食べても鮭などの魚や死んだエゾシカだ。
だが、もしもメスのヒグマがなにかのきっかけで人間を口にしてしまい、「人間はうまいエサである」、「人間は危険な生き物ではない」と学び、覚えてしまったら。
そのメスが母となり、我が子にそのエサの記憶を共有してしまったら。
駆除されない限り、人間はエサだと認識するヒグマはどんどん増えてしまう。
そしてそんな記憶を持つヒグマが一度、人間と遭遇してしまえば、不幸な結果を呼ぶ可能性は十分にあるだろう。
実際に日本史上最悪のヒグマ事件とも言われる三毛別ヒグマ事件では、当該のヒグマが事件より以前に女性を食べていたことがわかっており、人間、しかも女子供を積極的に襲って食べていた。さらにヒグマは1度見つけたエサやエサを見つけた場所、そして敵とみなした相手に対して執着する傾向が強い。
石狩沼田幌新事件では、自分の獲物であった馬を埋めた道のそばを通った人間を敵とみなして執拗に追いかけ、食害にまで及んだ。食害こそほぼなかったものの、これと似たような事件が3名の犠牲を出した福岡大ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件だ。
どうやら人間の食べ物の味を覚えてしまっていたヒグマが学生たちの荷物を自身の獲物とみなし、大学生らと取り合いをしていたのだが、その過程で彼らを敵と見定め、逃げる学生らをわざわざ追跡して嬲り殺している。
いずれの事件も、自分の獲物とみなしたもの、または獲物を害する敵に激しく執着している。
人間を食害したヒグマがその旨味に執着して何度も人を襲うようになれば、その先にあるのは人間にとっての悲劇でしかない。
次なる重大ヒグマ事件は起き得るか
三毛別ヒグマ事件、福岡大学ワンダーフォーゲル部ヒグマ事件、そして今回紹介した札幌丘珠ヒグマ事件、石狩沼田幌新事件。
列挙した4件の事件以外にも、北海道では今日まで数多の人間がヒグマの餌食となってきた。
過去の凄惨な事件を教訓とするのなら、今の私たちが考えるべきは現代においてヒグマによる大量殺人は起こり得るかという点だろうが、あくまで私見にはなるが結論から言えば重大なヒグマ獣害事件が起こる可能性はかなり低いと思われる。
理由は大きく3つある。
1つ目はヒグマと人間の住処の分離
札幌丘珠ヒグマ事件や石狩沼田幌新事件、三毛別ヒグマ事件が発生した明治から大正にかけての時代、北海道はまだまだ開拓の途上だった。
人間がヒグマの住処であった自然に分け入っているのだから、ある意味ヒグマとの遭遇は回避しきれないものだっただろう。
開拓当時と比べれば、人間とヒグマの住む場所の境界線ははっきりとひかれている。
お互いにその境を浸食することはあれど、多数の死者を出した昔の状況とは全く異なるはずだ。
2つ目に情報網の発達がある
通信技術などの発達により、ヒグマが目撃されれば行政、メディア、はたまたSNSを通じた個人による情報発信を通じて即座に情報共有できる世の中になった。
情報が得られれば危うきに近づかないという行動をとることができる。
これは人間のみが持つ大きな利点だ。
3つ目に私たちがヒグマに対する知見を持ち始めたこと
もちろん昔からヒグマがどのような動物であるか知られてはいただろう。
しかし、長年の研究によってヒグマの生態がより詳しく明らかになり、ヒグマと会わないためにどうしたらいいか、もしも会ってしまったらどう対応すべきなのか一般の人々にも浸透してきている。
万が一、ヒグマに襲われても正しい対処をとることで被害を最小限に食い止め、過去の悲劇の二の舞を防ぐことができるようになるはずだ。
ここまで希望溢れる観測を出しては見たが、ヒグマによる大量殺人事件が絶対に起こらないとは決して思わない。
特に危険なのはヒグマに対する無知と油断、そしてヒグマの生息地での単独行動だろう。
秋田八幡平クマ牧場
秋田県での話にはなるが、2012年4月、秋田八幡平クマ牧場というヒグマやツキノワグマなどを飼育・展示していた観光施設で女性従業員2名が死亡する事件が発生した。
平時、クマと人間が直接接触しなように飼育されていたわけだが、雪の降る冬期期間中、地下に掘る形で作られたヒグマの運動場に除雪した雪を捨てたことにより場内に雪山ができ、その山を登って6頭のヒグマが運動場の檻から脱走。
エサやりをしていた従業員に襲い掛かったのだ。
秋田八幡平クマ牧場のクマたちはどうやら慢性的なエサ不足の状態であったようで、足場を得たヒグマらはエサを求めて雪山を登ってきたとみられている。
その証拠とでも言おうか、脱走したヒグマたちは襲った女性従業員をまるで綱引きでもするように引っ張り取り合いながら貪っていたそうだ。
ヒグマの行動力や知性、エサへの執着心について知り、日頃から油断せずにクマと接していれば起こり得なかった事件だろう。そして、もう1つ危険なのがヒグマの住処、つまり山中での単独行動だ。
近年のヒグマによる加害事件で多いのが山菜取りやタケノコ採りなどで1人または少人数で入山ところを襲われる事件だ。
また、1人で登山に挑みヒグマと遭遇したとみられる事件も発生している。
大千軒岳ヒグマ強襲
2023年10月、北海道福島町にある大千軒岳で登山中の消防隊員3名がヒグマの強襲を受ける事件が発生した。
消防隊員らは持っていたナイフで応戦、なんとか生還を遂げて下山することに成功する。
その後、3名を襲ったヒグマはナイフで受けた傷が致命傷となり、絶命しているところを見つかったのだが、そのそばで変わり果てた姿の男子大学生が発見されたのだ。
学生の遺体の損傷は激しく、さらにその遺体には土が被せられていた。
恐らく、学生はヒグマに襲われ死亡した後に食われ、保存用のエサとして土饅頭にされたのであろう。
消防隊員らはこの土饅頭のそばを通ったため、ヒグマに出会ってしまったものと考えられる。
1人でいる時にヒグマと遭遇し、さらに対処を誤ってしまった場合、集団で対抗することもできず、襲われながらも辛うじて逃げられたとしても、連絡することができなったり、下山する術がなく遭難してしまったりと生存可能性がぐっと下がることは容易に想像できる。
特に登山届を出さず、周囲の人に行先を告げずに来てしまった登山など危険以外の何物でもない。
1人の被害を積み上げていけば複数、やがて多数の被害に繋がる。
昔の事件とはまた違った形で多数の被害者が出るヒグマ獣害事件になり得る可能性があるのではないだろうか。
ヒグマによる獣害事件を生み出さないため
そもそも遭遇さえしなければ、ヒグマが人間を襲うことはない。
近年はヒグマが人間の生活圏内に出没している例もあるが、そのきっかけがヒグマに人間の食べ物の味を覚えさせてしまったりという人間側に非がある場合も多数ある。また、ヒグマの生息域に人間が入る場合は言わずもがな、ヒグマに遭遇し、刺激しないよう人間側が警戒をすべきなのだ。
人間・ヒグマ双方のために、私たちが過去の悲劇を繰り返さないよう出来ることはまだあるはずである。
※画像はイメージです。
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