2026年は60年に一度の丙午。この年に生まれた女性は気性が激しく男を喰い殺すと言われ、昭和の丙午の年には未婚女性の自殺や堕胎件数が増えるなど、深刻な被害をもたらしました。
はたしてそれは真実なのでしょうか?今回は丙午の迷信のルーツと、その真偽を検証していきます。
丙午の年には火難が多い
まずは知らない人に向け、丙午(ひのえうま・へいご)の説明から。丙午は干支の組み合わせの43番目に当たり、西暦年を60で割って46が余る年が、丙午の年とされています。
これは古代中国の五行思想に基いており、十干の丙が陽の火、十二支の午も陽の火で、両方合わせて比和となります。
比和とは五行思想において同じ火属性の気が重なることで、占いの結果が良い場合にはますます良く、悪い場合にはますます悪くなる傾向が観測されていました。丙午が危険視されているのは火の気が重なっている事と無関係でなく、この年は火災が多いと信じられています。
なお前回の丙午は日本がいざなぎ景気に突入した昭和41年(1966年)、次回の丙午は2086年となっています。前者はビートルズの来日年としても印象深いですね。
付け加えると丙午の女が災厄を招く、男を不幸にするといった言説は、日本でだけ見られるもの。本家中国はもとより、東アジア諸地域にもそんな迷信は伝わっていません。
丙午の迷信の生みの親は井原西鶴だった
結論から言ってしまえば、丙午の女が男を喰い殺すというのは、悪質なデマゴギーに過ぎません。事実無根の迷信です。
ならば何故そんな迷信が流行ったのでしょうか?その元凶は江戸時代を代表する戯作者、井原西鶴と言われています。
丙午の女のルーツに言及する前に話しておきたいのが、天和に起きた八百屋お七の放火未遂事件。
お七は寛文8年に江戸本郷の八百屋の娘として生まれました。天和2年12月28日、お七の運命を変える出来事が起こります。それが天和の大火と呼ばれる大火事で、これによって一家揃って焼け出されたお七は、避難先の正仙院で寺小姓の生田庄之介と出会い、あっというまに恋に落ちました。
……が、店の再建に伴って境内から引き払うことが決まり、若い二人はあっけなく引き裂かれてしまいます。大前提として庄之助は仏に仕える寺小姓、お七はただの八百屋の娘に過ぎないので、片方が寺を出てしまえば逢瀬すらままなりません。
そこで恋人への想いを募らせていったお七は、「また火事になれば庄之助様に会える」と思い余って火を放ち、三日間の市中引き回しの末、鈴ヶ森刑場で火あぶりに処されたのです。享年15歳でした。
上記は作者不明の黄色表紙『天和笑委集』に収録された実話で、お七は天和年間に実在した女性とされています。
これを世間に広めたのが浄瑠璃作家・紀海音の浄瑠璃『八百やお七』で、為長太郎兵衛が『潤色江戸紫』でそれを引き継ぎ、馬場文耕は『近世江都著聞集』にて、お七の生年を寛文6年(1666年)と見なす根拠を示しました。
この仮説を強く後押ししたのが『好色一代男』で売れっ子に上り詰めた井原西鶴で、『好色五人女』収録の『恋草からげし八百屋物語』は、お七のエピソードを翻案した話になっています。相手役の庄之助の名前は吉三郎に変更されました。
実際のお七の生没年は不明であり、彼女が丙午の女だったかどうかはわかりません。ですが上記作家陣の影響力は無視できず、「丙午の女は火のように気性が激しい」「なんでも七人の夫を喰い殺すそうな」「ほら見ろ、あの八百屋お七だって丙午の女じゃないか」と、間違った思い込みが流布していったのでした。火災への警戒を促す暦法上の占事と、天和の大火が結び付いた悲劇と言わざるを得ません。
江戸時代の川柳には丙午の女を詠んだ句が複数あります。江戸初期の俳人・山岡元隣は、俳諧集『身の楽千句』にて、「ひのえ午 ならずば 男くいざらまし」と詠みました。これを訳すと「丙午生まれの女でもあるまいし、男を取って食べたりはしない」となり、甚だしい偏見が窺えますね。
宝暦・明和年間の川柳には、丙午の女性の結婚を詠んだ句が沢山あります。以下、庶民の川柳を集めた『誹風柳多留』収録の作品。
丙午 昼の契りも 絶へぬべし(丙午の女は昼でも関係なく盛っているぞ)
丙午 祟るまでこそ 命なれ(丙午の女は命がけで男を祟るそうだ)
ここで引用した川柳の詠み手は全員男性です。彼等に忌避された丙午の女性たちは、一体何を考えていたのでしょうか?
丙午の女たちが被った差別の実態
丙午の年に生まれた女性たちは、様々な差別と偏見にさらされてきました。江戸時代には丙午に産まれたことが理由で見合いが破談になり、離縁された例も少なくありません。丙午の年に孕んだ女児を堕胎したり間引いたり、捨てるといった所業も当たり前に行われてきました。
その背景には「丙午の女は嫁ぎ先の血を絶やす」「夫の精気を吸い取って早死にさせる」といった、酷い誹謗中傷が関わっています。
江戸時代の人々は丙午の女性を指し、行く先々で摩擦を起こす、自己主張が強いトラブルメイカーと決め付けました。
この俗説は明治39年(1906年)になってもまだ続き、前年と比べ女児の出生率が4%減少しています。関東大震災の混乱に乗じ、女児の出生届を前後の年にずらす親も続出しました。
そして明治39年生まれの女性が結婚適齢期となった1920年代前半、彼女たちの自殺が相次いで報じられます。自殺の原因は縁談の破談や婚期の遅れへの悲観、家族や世間の中傷などで、心無い迷信がどれだけ罪のない女性たちを追い詰めたかわかりますね。その一端を担ったのが明治の文豪・夏目漱石の小説『虞美人草』で、本作に登場する魔性の女・藤尾は、「丙午である」とはっきり書かれていました。
数少ない希望と言えるのは、丙午の迷信に「否」と声を上げる人々がいたことでしょうか。
1920年代前半はモダンガールが脚光を浴びた時代であり、先進的な女性たちの一部は、丙午の迷信を強く批判しました。
その一方で全国紙が大々的に自殺を報じたせいで、関東にとどまっていた丙午の迷信が日本中に広まってしまったのは、メディアの功罪と言えるかもしれません。
小説家の坂口安吾も丙午の受難を被った一人。彼の本名の炳五は丙午の年に生まれたことにちなみ、子供の頃から「男に生まれてよかったな」と周りに言われ続けてきたそうです。
やがて太平洋戦争が終わり、焼け野原から復興を遂げた日本は、高度経済成長の波に乗ります。ところが昭和41年(1966年)、またもや丙午の年に出生率が低下。これは前年に比べ25%減となり、産み控えをした世帯数の多さと、堕胎件数の増加を示しています。いわゆる昭和の丙午ショックです。
昭和41年の出生率がここまで落ち込んだ背景には、平均寿命が大きく延びた為に、前回の丙午騒動を記憶する人物が多く存命していたことが関わっていました。
当事者の妊婦や夫婦が出産を望んでも、親族の反対や近所の嫌がらせを受け、泣く泣く断念したケースが報告されています。
令和の丙午の受け止め方
そして令和8年(2026年)、60年に一度の丙午が巡ってきました。現在のところ産み控えの傾向などは特に見られず、漸く丙午の呪縛から解き放たれた、と前向きにとらえることができます。
丙午生まれの有名人に歌手の小泉今日子や広瀬香美、女優の財前直見やマラソン選手の有森裕子がいることも、くだらない迷信を否定する根拠には十分ですね。


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