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平田篤胤と復古神道神学

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平田篤胤は、江戸時代に荷田春満、賀茂真淵および本居宣長とともに国学の四大人と言われている。
その一方で、神道家かつ思想家であり、復古神道神学を樹立しました。
平田篤胤と復古神道神学について考察していきます。

目次

平田篤胤の半生

出羽国久保田藩の出身で、成人後、備中松山藩士で兵学者であった平田篤穏の養子になりました。
26歳(西暦1801年)のとき、駿河沼津藩士の娘織瀬と相思相愛の仲になり結婚しました。

篤胤は、古事記伝などの本居宣長の著作も読み、本居派国学を学びました。国学に目覚めたのは、妻の織瀬が入手した本居宣長の本を読んだからであると言われています。

西暦1812年に妻織瀬に先立たれ、愛妻の死は篤胤を幽界の研究へと導いていったのでした。

復古神道神学

篤胤は、仏教、儒教、道教、蘭学、キリスト教などの様々な宗教教義を積極的に研究し、西洋医学、ラテン語、暦学、軍学など、多くの分野に通じていました。

当時、禁止されていたキリスト教を知ったことで、天地創造神話、旧約聖書等の影響を受けて、天御中主神(アメノミナカヌシノカミ)を創造主とする復古神道神学を樹立したと言われています。
また、天地開闢は全ての国で共通の現象として把握されているはずだという考えから、様々な国の古い伝説についても調べていったようです。

天御中主神

天御中主神は古事記で登場する多くの神々(命「ミコト」)の一人で、その中で最も位の高い神ということになります。あるいは、宇宙の万物を統べる物理法則といってもよいのかもしれません。
しかし、天地開闢時(宇宙の始まりであるビッグバン)に、最初に現れたのが天御中主神であると記載され、天御中主神の登場はこの一回だけです。

名前から受けるイメージとして「天御中」は「宇宙の中心に存在する」ことであり、「主神」は「天地開闢の司令を中央で行う」ことであるように感じます。

平田篤胤の最後

篤胤は再婚し、西暦1843に出羽の久保田城下で病没しました。
68歳でした。

featured image:Hannah, Public domain, via Wikimedia Commons

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