「人型メカ」と言われた時、その姿を想像すると大多数の人は「直立二足歩行」の出来る姿と「人間に似た五本の指を持つ手」を両立させた姿を想像するのではないでしょうか?
丸っこい球体の手や機械っぽさ全開のマジックハンド型を想像した人は悪しからず。
ともあれ「人型」という言葉が想起させる出で立ちに「手(腕)」というものは欠かせない一方で、これを「機械で再現する」というハードル。現代の技術でも大きな困難が立ちはだかっており、人間の機能を完全に代替するまでは至らず、増して大型機械で再現をする事にはその意味や意義を見出せていないというのが現実と言えます。
それでも人はその姿を想像し、そこに何かしらの期待を持ってしまう事もまた事実であり、そこから何か新しいものが生まれる事もあるかもしれません。
今回はそんな夢とロマンの塊と言える「人型メカの手」について、いくつかの作品設定を交えながら踏み込んでみたいと思います!
そもそも「手」とは何なのか?「ツメ」や「ハサミ」じゃいかんのか?
「手」人間が直立歩行を始める事で、前「足」であったものが身体を支える役割から解放され、その結果ものを触り、掴み、握り、摘まむといった動作が上手く出来るようになった。人間という動物を特徴付ける身体的特徴と言える部分です。
「身近」な存在ですが、「何故基本的に5本指なのか?」「どうやってこんな形になったのか?」「どうしてこれだけ器用に動かせる必要があるのか?」といった問い掛けには、まだまだ答えきれないとも言われます。
例えば人間の手で特徴的とされる「親指」の存在。
他の四本と可動域が少し異なる事で「摘まむ」や「掴む」動作をよりコンパクトで力強く行えるようになっているとされ、この存在によって人間は「道具」を得る事が出来るようになったと言われています。
しかし「性能」という意味では、より特化した構造である「ハサミ」程の力は出せないものであり、産業用「ロボット」や建設重機などの分野でもこうした単純な構造を上手く活用する事。
「人間の手のように」器用な作業も可能にするというある種の逆説めいた状況が見られます。
構造を現代の技術で再現しようとすると
人間の手という構造を現代の技術で再現しようとすると、29個の骨とそれを取り巻く筋肉や靱帯が作り出す複雑な動き、大変な数のモーターやベアリング等が組み合わさった機械の塊が出来上がってしまう。
しかも単純な構造が作り出す力強さや器用さは、到底持ち得ないという「人体の脅威」を目の当たりにしてしまっている。
2024年現在、この分野は「次世代ハンドリングシステム」等と銘打たれた構造物の開発計画を筆頭に、人間の「手」をより詳細に検討する事で機械的に動作の再現へ近づけたもの。
腱や筋肉をワイヤーによって再現したもの、研究途上ながら培養した筋繊維を用いるもの(?!)まで、人体と同程度のサイズであれば実用段階へ達しようとする所にまで到達しているとされます。
これらはいずれも「特化した構造」では難しかった「人間の手」が「そのまま出来る」事。
パーツを取り替えたり、形状の違う装置を複数用意したりという「対応のしようはあるとして、手間が余分に掛かる」とされた「悩み」を解決して行くアプローチが作り上げたものであるという点が共通していると考えられます。
「人間が使う事」を前提
これは「人間が使う事」を前提として作られる、「人間(の手が作り出せる)が作った」ものである事が、使いやすさや便利さに現れるという事が言えるのかもしれません。
他方「大きな穴を掘る」であったり「沢山のものを一気にどかす」であるという動きであれば、よりシンプルで頑強な構造が有利になるという事も有り得るもの。
サイズや目的とする働きが違ったならば、そこでも「手」という形状が有効であるかどうかは異なる見解が生まれてくる事が考えられます。
ただ、その一方で「人間サイズのものが上手く作れたならば、大型化は不可能ではない」であろうという事が考えられます。
つまり、現実でいよいよ実現性が夢ではなくなって来た今、要不要ではなく「可能だから作った」というアプローチが有り得るのかもしれず、しかも作って見れば存外便利であったが為に定着してしまうという事も、或いは有り得てしまうのかもしれません。
兵器に「指」は必要なのか
「手」という、機械で再現するには複雑な構造に一定の解決が見られつつあるという現実から「作れるから5本指の手を作ってみた」という回答も有り得るかもしれない、というアプローチが現れてしまいました。
とは言え「人型メカ」の多くが「兵器」という位置づけである事は、要不要の判断が生死に直結するという事も事実。「理由無き構造」は「必要な冗長性」と異なるものだと言わなければなりません。
たとえばアーマード・コア
「人型メカ」を操る上で「手(腕)」の存在が時に無用のものとなる事を端的に「体感」する事例として、筆者個人の経験から挙げるのはゲーム「アーマード・コア」シリーズにおける「腕部」の存在でした。
このシリーズは「アセンブル」と称して用意されたパーツを組み上げて、出撃する為の機体を「脚部の許容荷重」等のレギュレーションに従って作成する事となりますが、機体を構築するパーツとして「腕部」を搭載する事が必須とされます。
「腕部」には各種の武器を携行・懸架させる事になるので必須とされる事は当然だと言えるのですが、実はレギュレーション上「武器を持たせない」という選択は一応可能となっています。
重量制限に対して武装を絞るという選択の結果起こり得るものではありましたが、ここで手に「武器を携行させない」という選択をした場合、文字通りの手持ち無沙汰。即ち「腕部の重量などが無駄にリソースを食う」=「死荷重(デッドウェイト)」の状態になってしまうものでした。
もちろんこれには「軽量の武装を携行させる」という対策が立てられるので然程問題では無かったのですが、この「死荷重」という「無駄」も作り得る自由度には驚かされたものでした。
ゲーム的には、こうした「無駄」を極力排除する選択として、腕をそのまま武装とした「武器腕」や非常に軽い携行火器の存在もあって無視出来るものではありましたが、自由に組み上げられる機体の「キャラクター性」とでも言うべき部分において「死荷重」という選択肢すら有り得たと言えます。
しかしただ「死荷重」と言うだけでは兵器としての用に耐えるとは言いにくく、より明示的にメリットを提言する事が求められるでしょう。
「フロントミッション」シリーズ
ゲーム「フロントミッション」シリーズでは「ヴァンツァー(歩行戦車)」と称される機体が登場します。
その開発前史となる「ヴァンドルグ・ヴァーゲン(WAW=歩行車両)」の駆け抜けた戦場を描く「フロントミッション オルタナティブ」では、地雷除去用の多目的作業機=最初期WAWの「アクチュエーター」。
筋肉や靱帯のように動作する特殊な樹脂素材と化学物質を組み合わせた関節部の開発によって、兵器としての可能性も花開いたとされました。
その「活躍」こそはプレイヤーが導く「戦果」であるという、実に皮肉なトリックの仕掛けられた物語となっています。「人型メカ」である「WAW」は、サイズにして全高およそ5m程、戦車砲クラスの大型火器と重機関銃クラスの支援火器を持ち歩け、車両では移動困難な箇所を踏破・制圧出来る「器用な」兵器として描かれます。
そして機体のバージョンアップが進むにつれ、完成度を増すアクチュエーターは、より大火力の兵器を扱えるようになる。ですが、作中の最終結果としては「頑丈になった結果、腕部をそのまま武器化出来るようになる」という進化の方向性としては逆行とも取れるものも現れました。
兵器化するというアプローチ
その意味において「手」という構造の利便性そのものを兵器化するというアプローチは、リアリティを追及する上で難しい問題だという事を浮き彫りにした作品だったと言えるかもしれません。
そんな「リアリティ」に関する回答として、大型の「人型メカ」を描いた作品として外せない「機動戦士ガンダム」。
最も初期に「実戦兵器」としての位置づけを持って開発された「MS-05B ザクⅠ」は「奇襲作戦を展開させた後、そのまま現地で兵站拠点を構築する」という。兵器としての戦闘能力に加えて高い継戦能力や建設重機としての機能までも期待された、文字通り「大きな歴戦の戦士」を求めた、途轍もなく高い期待を持って送り出されたものだとされています。
戦線の展開を考えた上では理想型とも言える流れではありますが、この機体を開発した「ジオン公国」のその後へ思いを馳せてみると、戦争に勝てない理由というのも分かるように思えるものだと言えましょう。
あらゆる事態へ対処出来るようになる
いくつかの事例を並べて見えて来る事としては「(人間の機能性を模した)手」を搭載させる事は「あらゆる事態へ対処出来るようになる」という「利便性」の問題である。
「要不要」の観点から見れば「不要」と判断して良い問題になる、という「目的如何」の問題であるという事が言えると考えられました。
とは言えこれは「実現性」という問題に光が差し込んだ2024年現在から見た回答とも言えるものであり、そこから考えるとエンターテインメントにおけるアプローチもまた、時代によって進化・変貌するものであるという事になるのかもしれません。
現実も創作も、興味を持って色々な知識を拾い集めるとこういう事も起きる、という一つの例として語る事が出来るテーマであるとは少々大げさかもしれませんが、そんな見方で楽しんで頂けたなら幸いです。
※画像はイメージです。
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