MENU

法隆寺にまつわる謎と伝説

当サイトは「Googleアドセンス」や「アフィリエイトプログラム」に参加しており広告表示を含んでいます。
  • URLをコピーしました!

日本が世界に誇る技術と文化に木造建築がある。世界最古の木造建築・法隆寺は、わが国の仏教興隆の原点であり、飛鳥文化の国際性を今に伝えている。
約187,000平方メートルの境内に一歩踏み入れば、目に入るのは第一級の国宝ばかり。同時に上宮王家(聖徳太子一族)の死の匂いもそこかしこにただよう。ここは悲劇の一族の息吹に満ちた血塗られた地でもある。もし斑鳩(いかるが)の里を訪ねる予定のある方がいたら、一度めは桜の季節を、二度めは冬をおすすめしたい。雪の法隆寺は表情をがらりと変え、圧巻の迫力をもって見る者に迫る。

推古女帝の治世(593-628)、摂政をつとめる甥の厩戸皇子(聖徳太子)は都の飛鳥から斑鳩に移り住んだと『日本書紀』は伝える。この斑鳩宮に接して皇子が創建したのが斑鳩寺、のちの法隆寺だ。
今ある法隆寺は、推古朝に皇子が建立した建物だと長いあいだ信じられてきた。が、書紀の天智紀に「670年に法隆寺が炎上し、一屋も余すことなく焼け落ちた」との記述があることから、再建・非再建論争が巻き起こる。
昭和の発掘調査以降、創建時のものとみられる旧伽藍(若草伽藍)の遺構や焼失を裏づける考古遺物が発見されたことで論争は一応の決着をみた。つまり、現在の金堂・五重塔を中心とする西院伽藍は再建であることがほぼ確定したわけだ。焼失を「670年」とする書紀の記述の信憑性や、誰が、いつ再建したのかはさておいて。

長い歴史をもつ寺社には謎や伝承、奇譚のたぐいがつきものだ。
再建されたとはいえ、開基から1400年を超える時を刻んできた法隆寺にも多くの謎が伝わる。日本の世界遺産第一号はどんな謎を秘めているのか。

目次

中門の中央に設置された不思議な柱

まずは回廊の南正面にある国宝の中門(ちゅうもん)。西院の出入り口にあたるが、現在は拝観者が通り抜けることはできない。
この門が特異なのは、間口が四間二戸の造りになっていること。通常、日本の寺院の門は正面柱間が三間、五間、七間と奇数になるところ、四間という偶数になっているため、真ん中に柱が置かれている。門でありながら使い勝手が悪く、まるで出入りを拒むかのような構造になっているのだ。

法隆寺の中門になぜ邪魔な柱があるのかは大きな謎とされてきた。中央に柱を置くことで入り口と出口を分けているという説もあるが、注目を集めたのは、そもそも中門は出入り口として造られたものではないという見方だ。
では、このエンタシスの柱はなにを意味するのか。
怨霊となった聖徳太子を寺に封じ込めるための柱、となる。一族を抹殺された太子の怨念を鎮めるために法隆寺は再建されたと説いたのは哲学者の梅原猛氏だ。太子の等身の御影と伝わる夢殿本尊の救世観音は長いあいだ秘仏とされつづけ、明治期に岡倉天心とアーネスト・フェノロサによって発見されたときは数百メートルもの木綿の白布でぐるぐる巻きにされていた。梅原氏によれば、これも怨霊封じとなる。法隆寺を呪いの寺とする氏の論考は『隠された十字架』に詳しい。

梅原説は、事実誤認にもとづいて推論を重ねている部分もあるため、否定的な意見も少なくない。とはいえ、本書が破格の大ベストセラーになったのは事実であり、氏の発想と問題提起を高く評価した研究者がいたのも事実である。

五重塔に刺さった四本の鎌

ふたつめの不思議は、五重塔の上部になぜか鎌が刺さっていること。
32.55mの五重塔の屋根には九つの輪をしつらえた相輪(そうりん)が立っている。この相輪に四本の鎌がかけられているのだ。国宝の建造物に無造作に鎌が刺さっているとはどういうわけなのか。

中門の柱と同じく、太子の祟りを封じるためにかけられたとする説もあるが、どうやら落雷対策の鎌らしい。法隆寺の123世管長だった佐伯定胤(じょういん)師が『佐伯定胤五重塔鎌表白』のなかで鎌のいわれを記している。
いわく、鎌倉時代に五重塔に雷が落ちて火災が発生した。その際に護符を各層に置き、鉄の鎌四本を雷除けとして相輪下部の四方にかけた。

避雷針代わりにかけたのではなく、魔物とみなされた雷を怖がらせるための魔除けというのが真相のようだ。

汗をかく夢殿の礼盤

東院伽藍は、8世紀に高僧・行信が斑鳩宮の故地に建てたと『法隆寺東院縁起』は伝える。この東院にある夢殿の礼盤(らいばん/僧侶が座る台座)の裏はいつも汗をかいている。

「汗」というのは湿気や結露による水滴のことだろうか。寺務所の説明では、毎年旧正月12日に夢殿の礼盤の木を持ち上げて石の表面を確かめると、実際に湿っている気がするという。

ここにはかつて斑鳩宮があり、井戸があった可能性がある。井戸を埋め戻したのだとすれば、地中の湿気が上って水滴がつくことがあるかもしれない。

片目の蛙

因可池(よるかのいけ)の蛙には片目がない。
言い伝えによると、学問にふける聖徳太子のかたわらで蛙がうるさく鳴いたため、筆で蛙の目を突いたところ、この池の蛙はすべて片目になったという。「和をもって貴しとなす」は蛙には関係ないらしい。

残念ながら、片目の蛙は事実ではない。因可池の蛙にはちゃんと両目があることが確認されている。光り輝く飛鳥の偉人のブラックな一面が垣間見える貴重なエピソードではあるが、あくまで言い伝えにすぎない。

法隆寺には蜘蛛が巣を張らない、雀も糞を落とさない

事実なら、すごいとしか言いようがない。法隆寺は蜘蛛も雀もわきまえるほどの聖域ということになる。建物から超音波でも放たれて
いるのだろうか。はたまた太子の怨念のなせる業か。

が、さすがにそんなわけはない。蜘蛛は巣をかけたいところに巣を張るし、雀もしたいときに糞をする。巣も糞も確認されているので、これも言い伝えにすぎない。法隆寺は清浄であってほしいという人々の願望がこうした伝承を生んだとも考えられる。

南大門の鯛石は水難を防ぐ

西院の南側の境内入口には、国宝・南大門が建つ。南大門の前には、鯛石と呼ばれる魚の形をした(ように見えなくもない)踏み石がある。

その昔、近くを流れる大和川の氾濫により洪水が発生しても、不思議とこの鯛石より先に水が押し寄せることはなく、境内は無事だった。以来、法隆寺は水害に遭わないといわれるようになり、鯛石を踏むと水難を免れるという風評が広まった。
実際のところは、寺が高台にあったからである。

三つの伏蔵

西院の境内の三か所に伏蔵(ふくぞう)がある。伏蔵とは、地下にある隠し蔵のこと。これは実際に存在する。

屋内の二か所(金堂と経蔵)にある伏蔵は昔から存在が確認されていたが、拝観者が目にしやすいのは昭和58年に新たに発見された大湯屋前の参道にある伏蔵だろう。秘密の蔵は、どうやら以下のような指示のもとに造られたらしい。
「法隆寺に災いが及んだときは、伏蔵を開けてこれを乗り越えよ」
つまり、寺の一大事を切り抜けるための財物が眠っているというわけだ。

伏蔵は過去に一度も開けられたことはないといわれているが、本当のところはどうだろう。法隆寺は何度か火災に遭っているし、すでに盗掘されている可能性も否定できない。

乙巳の変にいたる謎

瓦葺きの巨大寺院の建立は、現在に例えるなら最先端技術による大型原子力発電所を建設するのに匹敵する。それほど大規模な建設工事ともなれば、おそらくは国家事業であっただろう。ところが、『日本書紀』に「法隆寺」という名前が登場するのはただの一か所しかない。先の火災の記事だ。

645年の暗殺事件、すなわち蘇我宗家の滅亡によって真相が闇に葬られてしまった謎がいくつかある。
もしクーデターが史実だとすれば、なぜ中大兄皇子と中臣鎌足は入鹿を騙し討ちし、蝦夷を自害に追い込んだのか。見方を変えれば、それは蘇我宗家がまともな手段では対抗できない正当な存在だったことを反証してはいないか。蘇我入鹿なる人物の正体は何者だったのか。

法隆寺は、蘇我氏と強い血縁関係にあった聖徳太子と蘇我宗家の存在に深く関わりすぎたものだろう。乙巳の変にいたる謎は、このあたりにも隠されているような気がする。

※画像はイメージです。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!

思った事を何でも!ネガティブOK!

コメントする

コメントは日本語で入力してください。(スパム対策)

目次