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自分で自分の首を絞めた帝国海軍

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軍縮条約を破棄した結果、帝国海軍の相対戦力は低下した。

目次

軍縮会議

第1次世界大戦で勝利しながらも経済的に疲弊した欧米の戦勝各国は、折からの世界的な建艦競争により肥大した軍備が国家財政を圧迫し、軍事費削減が急務になっていた。
一方で戦勝国の一隅に食い込み、戦場から遠く離れていた日本は、戦災被害もないばかりか、戦時体制となった欧米に取って代わる形で輸出を伸ばす戦争好況に沸き、戦後にはドイツが領有していたアジア権益を継承して国外進出を始めた。

明治立国以来、欧米列強に対する比肩が国是の日本は軍備を急速に増強し、その軍備を背景に中国などでも勢力を伸張しつつあった。また海軍においては大国の米英に次ぐほどの海軍力を保持するようになり、米英にとってそれは無視できない脅威となっていた。
自国経済の健全化という内なる問題と、対外拡張を図る日本の脅威という外的問題を解決するため、欧米諸国が企画したのが、軍事費が莫大な海軍力の国際的制限を目的とした海軍軍縮条約だった。

6割対7割

ワシントン、ジュネーブ、ロンドンと続けられた海軍軍縮会議で、保有する艦船総トン数の比率が英米10:日本6.75で条約が締結された。

ワシントン会議に出席した加藤友三郎海軍大臣は、「国防は軍人の占有物にあらず」という思想を持っていた。
日本の現状と世界の情勢に鑑みて、国力に応じた武力を整備しつつ、一方で外交的手段によって戦争を回避することこそが、現実的な国防だと加藤は考えたのだ。
世界との協調による戦争回避を唱える、加藤を始めとする海軍内部の勢力は条約派と称された。

これに異を唱えた一派が艦隊派である。
当時の海軍兵術の常識として、侵攻軍は守勢軍に対し5割以上の優勢保持が必要とされており、この兵術理論を基にして、
帝国海軍における対米7割軍備の絶対維持を艦隊派は主張した。彼らはこの7割が認められない条約では国防上の責任が果たせないとして、その締結には強硬に反対し、対米戦争も辞さずの姿勢で条約派との対立を深めていった。

国防とは唯一軍備の他なしという思考に囚われた艦隊派は、対米7割に満たない軍縮条約に危機感を募らせ、海軍部内で優勢だった条約派の追い落としを画策し、策を弄して主だった条約派将官の多くを予備役に編入する事に成功した。
その後、日本は軍縮条約の破棄、脱退を順次敢行し、海軍軍条約は国際的に失効することになった。

建艦橋競争再燃

軍縮条約の制限から解放された帝国海軍は、超ド級戦艦の大和、武蔵の建造を始めるなど軍備増強に走った。
その結果、昭和16年末時点での帝国海軍保有艦船総トン数は、対米7割を超えるに至った。

一方、パリ無血占領などナチスドイツの勢力急拡大という欧州情勢への対応もあり、米国も大西洋・太平洋両艦隊戦力を現状の7割増とする強化計画を発動した。それは、昭和16年(1941年)の米海軍の建造艦船トン数が、約190万トンに達するものであった。

対する帝国海軍の建造能力は昭和19年までの3年間でわずか約39万トンで、戦力の対米比率は昭和18年で5割、19年で3割と急減する事が予想された。日米の国力差を考えれば、この差は時間が経つほどに開きこそすれ、改善される見込みは皆無である。つまり米海軍の進攻を撃破する事は開戦が遅れるほど可能性が低くなり、この事が艦隊派の即時対米開戦の論拠となった。

結果、国際情勢や彼我国力を現実的冷静さを持ってしっかり分析することのない、自己に都合の良い予想を繋ぎ合わせた甘い戦争方針の下、日本は無理な戦争に突入する。
帝国海軍は軍縮条約破棄によって、自分で自分の首を絞めることになったのである。

歴史大好きじいさんです。
戦争をしない事が最大の国防ではないでしょうか?

参照:日本海軍の興亡 半藤一利 著

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