昔の自分が残した殴り書きのメモに「首切断した際に個人として扱われるのは首か胴体か」という文言があった。
若気の至りながらアウトなテーマだなと頭を抱えたので、自戒も含め、これを機に整理してまとめてみる。
人間の『個』の定義
『人間を人間たらしめているのは何か』。あまりにデリケートな議題ゆえ思考する時は途中で投げ出さず最後まで突き詰めていく必要がある。身体面に焦点を当てるに、人間であるためには四肢満足でなくとも良い。
不随でも欠損でも問題ない。意思表示ができる状態か否かも問わないとすれば、究極は身体的には『生きてさえいればそれは人間である』とさえなり得るだろう。
では精神面はどうか。『意識があるか否か』を据えるのはいささか危うい気がするが…意識や感情すなわち『心・精神』を医学的観点で『脳の一部機能』と見るか宗教的観点から『≒魂』と捉えるかで意見が分かれるところでもある。
医学的観点で『心・精神=脳の一部機能』と見るなら身体面の『不随や欠損を問わない』とあるので感情や意識の有無は条件にならない。
一方宗教的観点の『心・精神≒魂』と見るといつぞやの紙面にまとめたように『魂はその人の人格や徳を現わす』として同様に感情や意識を司る魂の有無がその人たらしめる条件になり得ると解釈できる。
切断された生き物の個の在処
上記を踏まえて、前章のメモ「首切断した際に個人として扱われるのは首か胴体か」を考える。これを取り上げたきっかけとして、中世ヨーロッパで起用されていたギロチンによる囚人処刑。
その場で行われたという切断された囚人の首に対する意識確認実験がある。ボーリューやヴェントなど少なくない学者が行い、切断後の生首が呼びかけや与えられた刺激に示した反応が意識的なものか単純な筋収縮か、今なお物議を醸している。もう一つが聞いたことがある者もいるかもしれない『首無し鶏マイク』の話。締める目的で首を落とされた鶏が、首が無い状態で18ヶ月生きたという。
こうしてみると「首を切断された人間は急激な血圧の低下により気絶し実質即死する」という大前提が揺らぎそうになるが。意識確認実験では学者は切断された胴体ではなく首を対象としている。個としての定義は胴体も首も条件を満たしているが、意識確認が目的なのもあり医学者たちが優先したのは意識を司る脳のある首だった。
一方首無し鶏は胴体が個として扱われ世話されたが、一説では切り落とした際に脳幹が無事だったらしく、首切断というより顔を削ぎ落した状態の鶏を周囲の人間は個として扱ったようである。
この2つの事例に共通するのは、個の在処に脳の所在や機能が影響している点。欠損は個の定義上関係ないとしていながらも、やはり己の身体を意識的に動かすための脳の存在は個にとって大きいようだ。
生き物の『個』の定義と意識の考察
上記の事例を振り返れば筆者が自身のメモをアウトと言った意味合いも何となくだろうと伝わると思う。実験は囚人の公開処刑を民衆の娯楽としていた当時だからこそ行えたし、首無し鶏はほぼ奇跡の産物で同じ状態の鶏を意図的に用意するのも現代までに育まれた倫理観が許さないだろう。
しかし、過去を顧みて発想するのは(許されるかは別として)止められはしない。
『脳の生命活動ひいては意識さえ維持できたらソレは人間たらしめるか』という閃きのもと、一昔前のSF作品のような培養液に浸りディスプレイに返答を表示させる脳みそ・・・。
とまではいかないが、今までと違う生き物の『個』の姿の模索と実現に向けた技術の研究は探せば黙々と行われている様子がわかる。
特に1920年代の解体前の某赤い国の犬を使った実験は中々衝撃的かつ冒涜的な絵面なので、興味が湧いたなら調べるのもいいが相応の覚悟をもって踏み込んでほしい。
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