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日本映画界の巨匠「マキノ雅弘」、コックリさんに結婚相談?

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占いのひとつであり、降霊術でもあるコックリさん、子供のころにやった事がある人はそれなりにいると思う。
コックリさんは、1970年代に子どもたちの間で流行したのだが、太平洋戦争が起きるより以前から割とポピュラーなものであったようだ。

とりわけ女性のあいだでは、コックリさんに恋愛相談を伺う発想はいつの時代も当たり前で「エンジェルさん」「キューピットさん」などとネーミングを変え、恋占いに特化したコックリさんの派生バージョンを楽しんだ方も多いと聞く。

そうしてコックリさんに結婚相談して、あまつさえ占いの結果どおりの相手と結婚した人物がいるという。
日本映画界の巨匠「マキノ雅弘」なのだ。

目次

マキノ雅弘の半生

マキノ雅弘、本名は牧野正唯、日本で最初の映画界で活躍した牧野省三の息子である。
子役から始まって、父の元で助監督を務めるようになり若干18歳で監督デビュー、85歳で没するまでに約200本以上もの監督作を残した。
特に『次郎長三国志』や『日本侠客伝』シリーズが有名で、出演した鶴田浩二や高倉健、藤純子を映画スターにしたのは彼なのだ。

しかし、彼の人生は順風満帆とは言えず、評価はされるが興行としては失敗という作品も多く、父と共にトーキー技術を開発して作品を発表、大ヒットしたのだが公開の20日後に父に牧野省三は多額の借金を残して亡くなってしまった。

それからというもの返済に奔走、一つの作品を休まず短期間で撮影していずれもヒット作になるなどの離れ業をこなして、つい1930年の後半には完済。
ホッとしていたある日のこと、姉の智子が「借金はのうなったし丁度ええわ。あんた結婚しぃ」と雅弘に諭したのが事の始まりと言われている。

コックリさん、誰と結婚したらエエの?

おそらく1937(昭和12)年ごろの出来事だろう。このとき、雅弘はある京都の芸者と恋愛の渦中にあった。
当時の雅弘にとって、結婚相手といえば恋愛中である芸者の女性のほかに考えられない。しかし芸者と結婚したいと言えば、母を怒らせて面倒な揉め事が起きるだろう。

そう雅弘が智子に言うと、彼女は突拍子もない解決策を口にした。

「あんたがエエ人やと思うんなら、その人でエエやん。そんなにオフクロを怒らせるのが心配なら、コックリさんにみてもらうか?」

智子が言うには、雅弘がよく起用している役者、田村邦男の妻はコックリさんの名人であるそうだ。
田村の妻にコックリさんをやって貰うよう頼み、結婚する相手は誰がよいのか、コックリさんに訊いてみようという。コックリさんが「芸者がええ」と言えば、母親だって文句はなかろうとの思惑である。

よう当てはんねんで、田村さん家のコックリさんは

いくら悩んだところで、結婚相手についての答えは出ない。
雅弘は遊び半分の気分で智子の勧めにしたがい、コックリさんを試してみることにした。

後日、雅弘が智子に伴われて田村家へ行ってみると、すでに田村の妻はコックリさんをおこなう準備を済ませていた。
アイウエオ順のカタカナと数字の書かれた紙を用意している点はポピュラーなコックリさんと同じだが、お酌などを運ぶときに用いる盆を乗せた三本の棒が、紙の上に組まれている。

儀式の詳細は不明だが、田村家のコックリさんは盆を乗せた棒が独りで動き、紙に書かれたカタカナを棒の先が指し示した文字を組み合わせ、お告げの内容が分かるというもの。
どうやら田村家の妻が用意したコックリさんは、何事かを訊ねたら勝手に動くというポルターガイストのような現象を引き起こすらしい・・・トリックでなければの話だが。

さてコックリさんにお伺いをした雅弘と智子だが、ふたりはその奇妙な現象を目にしても別に驚かなかったらしい。結婚相手は誰がよいのか聞いてくる、それだけが唯一にして最大の目的であり、目の前で起きた心霊現象に興味のない、現実主義のマキノ家。

雅弘はコックリさんに聞いた。

「××という芸者がおって女房にしたいんや。どうです?」

盆を乗せた三本の棒は独りで動き出した。

「ア・カ・ン」

コックリさんの答えは「あかん」。京都のコックリさんは京都弁で喋るのである。

「アカンのか?じゃあコックリさんは誰がエエと思うの?」

ふたたび盆を乗せた三本の棒は動き出した。
コックリさんは順に「ト・ト・ロ・キ」の文字を指す。

「トトロキ?だれや?トトロキって」

そのままコックリさんは動きを止めず、「ユ」「キ」「コ」の文字を指した。

「トトロキ…ユキコ?トトロキユキコ?轟夕起子か??」

オレは轟夕起子と結婚するんか?

轟夕起子(1917~1967)。宝塚少女歌劇団出身で、在籍時は娘役で名を馳せた女優。
1937年当時、雅弘が雇用されていた日活は、彼女をライバル会社である宝塚から引き抜いて世間を騒がせていた。映画監督と女性俳優が結婚する、というのは現在でこそ珍しくないが、当時はあまり例がない。
雅弘と智子にとって、轟夕起子との結婚など考えたこともなかった。

「コックリさん、オレは轟夕起子と結婚するんか?」

この時点で、牧野家と轟夕起子のあいだに面識はない。

「無理なこと言わんといてくれ、スターさんと結婚する人や」

雅弘は言い返したが、コックリさんは「向こうから言ってくるまで待て」と言う。コックリさんと口論をする、という光景も珍しい気がする。

「アホくさっ!」

雅弘は一笑に付すと、礼を言って田村家に後にした。

しかし暫く経ったころ。『江戸の荒鷲』という映画の撮影中、轟夕起子は眼に怪我を負う。その映画の監督こそ他ならぬ雅弘だった。

雅弘はコックリさんのお告げを思い出して、轟夕起子を口説きにかかった。そこから二人は急接近。
1940(昭和15)年、雅弘と轟夕起子は結婚し、翌年には長男の正幸を授かった。

ちなみにコックリさんから無下に「結婚したらアカン」と言われた芸者の女性だが、「轟夕起子とデキてしもうた」と雅弘が告白すると、「ほな、お幸せに…」と言って自ら身を引いてしまったらしい。

創作説

付言しておきたいのは、雅弘は娯楽映画を製作する叩き上げのベテランであっただけに、プライベートでも虚実の入り混じったホラ話が上手かったことである。

このエピソードも1977(昭和52)年のインタビューで語られたに過ぎない。雅弘の御弟子さんである脚本家が語ったところでは、打ち合わせの席で師匠は「嘘なのか本当なのか分からない」思い出話をたびたび、まことしやかに語ったという。

コックリさんのエピソードもまた、さしずめ怪談映画が撮られている現場を思い出していた雅弘が、ふいにインタビューの席で思い付いたホラ話かもしれない。
雅弘本人や智子、轟夕起子、田村邦男の妻、誰もが彼岸に渡ってしまった今では全て謎のままである。

しかし万が一、マキノ雅弘のコックリさん体験が事実だとしたら?

Body Feels EXIT

京都弁のコックリさんは長男 正幸の将来まで見通していたのだろうか?
雅弘が亡くなった2年後の1995年、沖縄でアクターズスクールを経営していた正幸の教え子は音楽チャートの上位ランキングの常連となり、日本中で大ブレイクしていた。

まさか京都のコックリさんは「あんさん、轟夕起子とデキたら、生まれてくる息子は音楽業界の大物を育てるでぇ」と考えたか、どうか?

正幸の教え子、彼女の名を安室奈美恵という。

参考文献:
『マキノ雅弘自伝 映画渡世・地の巻』平凡社 昭和五十二年

featured image:不明Unknown author, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で

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