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「JAL123便墜落」事故を巡り囁かれ続ける大陰謀論

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ボーイング社による後部圧力隔壁修理ミス。
事故調査報告書内でそのように結ばれたJAL123便墜落事故の事故原因。しかし、今だ解明されないいくつかの謎が疑念を生み、それは疑惑へと変わっていく。

後部圧力隔壁修理ミスは真の事故原因なのか?
日本航空史史上、最悪の事故の真相を人々は追い求め続ける。

目次

JAL123墜落事故の謎

JAL123墜落によって亡くなった犠牲者や残された遺族らにとって、本人の無念や恐怖、遺族の苦しみや悲しみが終わることは決してないだろう。しかし、事故調査報告書の公表や事故関係者に対する捜査が終了したことで、JAL123墜落事故は一旦の終結を迎えることとなる。

事故から35年以上が経過してもなお、事故原因や事故後の対応を巡って数多の疑問や異論が唱えられ続けている。
マスコミや当該分野の研究者、ネット上で疑問視されている主な謎をいくつか紹介したい。

なぜJAL123機体は長時間見つからなかったのか?

JAL123便の推定墜落時刻は「18:56」、長野県警のレスキュー隊が墜落現場付近を特定、地上に降下して実際に墜落現場を確認したのが翌朝「8:30」頃。墜落から地上で墜落機体を発見するまで約13時間30分を要している。

JAL123が日没時刻後に墜落したため夜間の捜索となってしまったことや、墜落現場が登山道等が整備されているような山間ではなかったため現場になかなか辿り着けなかったこと、事故発生当時はGPSシステムなど正確な位置情報を特定するシステムがまだ実用化されておらず、正しい場所の特定が難しかった。

だがこの捜索時間、約13時間30分の間で大きな問題となるのが、自衛隊による事故機捜索結果から得られたJAL123墜落場所の位置情報の精度の低さである。

墜落から機体発見までの経緯を改めて簡単に確認したい。

  • 18:56(推定時刻)JAL123墜落
  • 19:15(アメリカ軍) 空から火災発見し自衛隊に情報共有
  • 19:21(空自)空から火災発見
  • 20:42(空自)空から火災確認
  • 21:00頃(新聞社火災発見)空自の測定地点と新聞社の測定地点が相違。
  • 翌1:00(空自捜索)「実際の」墜落地点との誤差2km、現場は長野と主張
  • 4:39(空自捜索)墜落地点との誤差3km、現場は長野と主張
  • 5:00(陸自捜索)墜落地点との誤差1km以下、現場は長野と主張
  • 5:37(長野県警捜索)現場は群馬と主張
  • 5:39(空自捜索)墜落地点との誤差1km、現場は長野と主張
  • 8:30(長野県警)地上から墜落地点発見、現場は群馬県

確かに現場付近は空から見ると長野、群馬、埼玉、山梨の県境が複雑に入り組んだエリアだったため、夜間に火災だけを手がかりに墜落現場を特定するのは難しいだろう。しかし、自衛隊以外の機関が墜落現場を「群馬県」としているにも関わらず、なぜ救助の要となるはずの自衛隊だけがいつまでも現場を「長野県」としか認識できなかったのだろうか。

墜落現場が「長野」、「群馬」とで情報が入り乱れたせいで、地上からの救助に乗り出した各種関係機関の足並みは混乱。
現場付近の山間を右往左往したり、待機を余儀なくされたりし、救助隊の現場到着の遅れを引き起こした。

空から墜落現場を確認し、地上から救助に向かう部隊に墜落地点というゴールを示すことは救助の第1歩だ。
なぜ自衛隊の捜索結果の情報精度だけが著しく低かったのだろうか?

生存者は本当に4人だけだったのか?~現場から消えた男の子~

未曾有の事故による悲惨な現場で4人の方が生き残った事はただただ生きてくれていて良かったとしか言いようがない。
この世の地獄のような場所でこの4人を発見し早急に救助に当たった長野県警と墜落現場となった群馬県上野村の消防団員らもきっと同じ思いだったと思う。

一方で事故現場から自衛隊ヘリで4人全員を事故現場から引き上げるま約3時間かかっている。
地上で見守る人達はさぞや長い1分1秒を過ごしただろう。

生存者は全員、機体後部の座席番号54から60(最終列)の間、中央と左側の席に座っていた。
この座席付近に座っていて亡くなった人についても他の席の遺体と比べ、やや損傷が少なかったらしい。

一方で機体前方から中程、1列目から42列目までに座っていた乗客の遺体は事故の衝撃によって遺体自体が損壊したり、焼け焦げて炭化している遺体まであったという。事故調はJAL123に搭乗、死亡した乗客乗員について即死、または即死に近い状況だった、と報告書に記している。

生存者の証言によれば事故直後、幾人もの人の息遣いや「おかーさん」と母を呼ぶ男の子の声が聞こえていたという。
また、墜落から暫く経過した夜間になっても「早くきて」と言う若い女性の声や「ようし、ぼくはがんばるぞ!」という男の子の声、誰かの息遣いが聞こえていたそうだ。

家族4人でJAL123便に搭乗し、家族の中で唯一助かった12歳の少女は墜落直後、父親と妹は生きていたと証言。
妹とは会話もしていたようだ。

事故調査報告書に記されたように、本当に搭乗者全員が即死に近い状況だったのだろうか?

事故翌日、13日午後の段階では複数のマスコミが4人以外の生存者の情報を伝えている。
この情報のほとんどが、先の4人の生存者をダブルカウントしていたり、無線の錯そうによる情報伝達ミスが引き起こした誤報だが、1点気になる情報がある。

結局は誤報とされた生存者情報の中で、唯一具体的な人物の描写が確認できた「黒い服を着た男の子」だ。
紙面には載らなかったものの、新聞社もこの男の子の情報をキャッチしており、あるテレビ局では「男の子発見、ヘリで救出されるもよう」との一報を生放送で伝えている。

13日午前、ある写真が撮影されていた。自衛隊員と隊員に横抱きにされた男の子の写真である。
男の子の足が正面、頭が奥の構図で撮影され、腕で顔を隠すようにし抱かれている。左足の一部にケガを負っているように見えるものの、体や衣服などに目立つ汚れは少ない。
そしてこの男の子のズボンが黒色(モノクロ写真のため断定はできない)に見えるのだ。

だが13日の夜以降、この男の子の安否に関する情報はぱたりと報じられなくなる。

もちろん生存者の中に男の子もいなかった。
もし男の子生存が完全な誤報で、自衛隊員が抱きかかえていた男の子がすでに亡くなっていたのだとしても、四肢、頭部、身に付けていた衣服が無事な状態であったため、身元の特定は早い段階で行われたはずだ。

なぜ男の子のその後は報じられなかったのか?
男の子は一体どこへ消えてしまったのか?
この男の子が誰なのか、今日まではっきりとしたことはわかっていない。

CVR音源は本物か

JAL123のCVR内容は音源は公式には発表されておらず、現在世に出ている音源は非公式にマスコミに流出したものだ。
しかし、その内容については不審な点や意図が判明しない言葉がいくつか存在する。
例えば、18:27、東京ACCからJAL123にどういった類の緊急事態なのかとの問いがあった際、JAL123は回答していない。

その後東京ACCやアメリカ軍らとの交信の中で、羽田への誘導の要求や現在地の確認、アンコントローラブルだという表面上の状況は伝えているものの、油圧がすべてダメになっているといったより詳細な状況の伝達も行われていない。

残されたCVRの前半、機長は頑なに羽田への帰還を目指し、後半になってコクピット内では羽田以外への緊急着陸を目指すような言動がみられるものの、地上との交信でJAL123が緊急着陸の意向を明確に伝えている場面は見当たらない。
その上、墜落直前の18:55、東京APCからの着陸場所の意向確認に対し返答することなく、その後の交信を断っている。

もしも地上やアメリカ軍からの交信に対し詳細な回答があれば、外部からJAL123をフォローできる可能性はあったのではないだろうか。コクピットは操縦不能状態の機体を制御するだけで手いっぱいだったと言われればそれまでだが、不自然だと言えばそのようにも捉えられる。

そして、CVRには意図がわからない言葉も残されている。

18:29 機長:「なんだこれ」
18:37 機長:「降りるぞ」
?:「…(判別不能)」
機長:「そんなのどうでもいい」

異常発生から約5分後の18:29に機長はなにを見たのか。
油圧制御不能、機内R5ドア破損という緊急事態の最中、機長が「どうでもいい」と断じたことは一体何だったのか?

目撃された3機の航空機

8月12日、一機広い空を迷走していたJAL123。地上では多くの人々がその異常な飛行機を目撃していた。
特に墜落現場に近く、18:53~18:54頃にJAL123が飛んでいた長野県での同機目撃通報は長野県警を動かすきっかけっとなっている。

一方で事故後1ヵ月半程が経過し、編纂された文集がある。

JAL123墜落現場となった群馬県上野村の小中学生によって書かれた、JAL123便墜落事故に関する文集で2022年7月現在、群馬県立図書館に保管されている。文集は墜落事故を風化させないため、事故当日8月12日に小中学生自身が見聞きした物事を書き記したものだ。

その中に、具体的な18:45という時刻と共に、ジェット機2機と1機の大きな飛行機が不審な動きをしていたのを大人と一緒に見たという小学生の目撃情報が記されていた。

この計3機の飛行機の目撃情報は他の中学生も同文集内に残している。

文集とは別に18:40頃、群馬県内の実家に帰省していた非番の自衛隊員が実家の上空を空自のF4戦闘機2機が低空飛行しているのを目撃したという証言もある。

もしも上野村の小中学生が目撃した3機の飛行機が、非番の自衛隊員が目撃したJAL123と2機のF4戦闘機であったなら、自衛隊は墜落前の段階でJAL123に何が起きたかを知り得たということになる。
苦難に陥るJAL123をフォローできる可能性があり、墜落場所をまだ暗くならないうちに確認できたはずなのだ。

しかし、空自のF4戦闘機発進は19:01とされており、子ども達や非番の自衛隊員の証言するF4戦闘機とは異なる。そしてJAL123のCVRにも明確にF4戦闘機の乗組員と交信した形跡はない。では彼らが目撃したF4戦闘機と見られる航空機はなんだったのだろうか?そして苦しみもがくJAL123のそばで一体何をしていたのか。

事故後公開されたオレンジの浮遊物

犠牲となったJAL123の乗客の中には機内で写真を撮影している者がいた。
事故後、遺族の元に返却された写真の一部が公開されているのだが、その中にJAL123の窓の外を写した1枚がある。

そこにはJAL123のすぐそば、空中に黒い物体が浮いているように見える。
現代の技術で解析するとその黒い浮遊物はオレンジ色の浮遊物であることがわかったそうだ。
空を飛ぶオレンジ色の物体というと考えられるものはそう多くはないはず。

その多くはない物体の1つに挙げられるのが、自衛隊の無人標的機だ。

「後部圧力隔壁修理ミス」は本当の事故原因か

JAL123機体発見の遅れと自衛隊から発表され続ける精細さを欠く墜落現場位置情報。
警察や他の応援機関から遅れを取った感の否めない救助の状況。
不自然とも思えるCVRに墜落地点付近で目撃された飛行機、正体不明のオレンジ色の浮遊物。

事故調査報告書で後部圧力隔壁修理ミスが事故根本原因と公表された今日でも、根強く真の事故原因ではないかと疑われ、囁かれ続けるのが、「JAL123便墜落自衛隊誤射説」である。

自衛隊機のミサイルが尾翼に当たった?JAL123便墜落自衛隊誤射説

8月12日18:24頃、訓練中の自衛隊が無人標的機を誤ってJAL123に命中させてしまい、JAL123は操縦不能状態に陥る。
よりにもよって無人標的機を当てた相手は多数の乗客が乗っているとみられるジャンボジェット。

もしも民間の航空機に対し、このような事故を起こしたと世間に知られればバッシング程度の話では済まず、自衛隊存続に関わる話となってもおかしくはないのだ。

このミスを外部に知られるわけにはいかない。
このミスはなかったものにしなけれならない。

事態を知った自衛隊はすぐにF4戦闘機を発進させ、JAL123を追尾。JAL123援護のためではない、証拠隠滅のためである。
18:56、JAL123墜落を見届け、墜落場所をも特定させたF4戦闘機は現場を離脱。
代わって別のF4戦闘機を発進させ墜落現場特定に向けて捜索を開始した様を装い、他機関の捜索活動の妨害を開始する。

まるでこの証拠隠滅活動を裏付けるような話もある。

13日朝より早く墜落現場に駆け付けた男性の民間人がいたのだそうだ。
長野の実家に帰省中だったこの男性はテレビのニュース速報でJAL123墜落を知り友人と共に墜落現場とみられる山間にオフロードバイクで行くことを試みる。公式に墜落現場の特定はされていなかったものの、男性らは上空で旋回する戦闘機の位置を頼りに旋回音の中心付近を目指し、バイクと徒歩で林道を進んだそうだ。

そして山の尾根が白み始めた(推定、翌朝4:00頃)頃、墜落現場と思われる場所に到着。
男性らが目にしたのは、散乱する残骸の間から人々のうめき声が聞こえる中で活動する多数の自衛隊員と思われる集団だった。この集団は苦しむ人々には目もくれずに地面に落ちているなにかを拾い集め、上空で待機していたヘリに回収させていたという。

男性らが到着してから1時間ほど経つと別の自衛隊員らがやって来て、元からいた集団は引き上げていったそうだ。

救助活動にあたった消防団員が事故現場で「(飛行機の燃料には用いられない)ガソリンとタールが混ざったような臭いがした」と証言したという話や犠牲者の検死作業に参加した検死医が犠牲者の遺体を「2度焼きされたような遺体」と表現したことから、証拠隠滅のため、自衛隊が火炎放射器を使用し、遺体を焼くだけに留まらず、その時はまだ生きていた者達までも焼き殺してしまったのではないかと囁かれているのだ。

もしもこの話が事実なのであれば、自衛隊は自分達のメンツを守るためだけに、なんの罪もないJAL123の乗員乗客を葬り去ったことになる。
まさに鬼畜の所業としか言いようがない。

疑惑に対する解説書

事故に対する疑惑の声に答えるべく2011年7月、国の運輸安全委員会は「日本航空123便の御巣鷹山墜落事故に係る航空事故調査報告書についての解説」を公表する。

圧力隔壁が損壊したにも関わらず機内で吸い込まれるような猛烈な勢いの風が発生しなかったことや室温が著しく低下しなかったこと、コクピットの機長らが酸素マスクをつけていなかったなどの理由から急減圧が発生しなっかたのではないか。

急減圧が発生しなかったのはそもそも圧力隔壁が損壊していないからであり、真の事故原因は後部圧力隔壁修理ミスではないのではないかという疑問に対し、事故報告書で説明した事故原因が正当であることの解説を行っているのだ。

事故犠牲者の遺族や事故に対する疑念を持つ人々の疑問に丁寧に応えようという意図が感じられる解説書になっているが、JAL123墜落を巡って囁かれる陰謀論を食い止めるには至っていない。

2020年、突如出現したJAL123

JAL123という便名は事故を受けて1985年9月以降、欠番となっている。
世紀の大事故となった以上、JAL123の便名がこの先使用されることは恐らく永久にないだろう。
しかし2020年8月6日、「Flightrader24」という民間航空機の現在の位置情報をリアルタイムに表示するサイト・アプリ上に突如「JAL123」が出現したのだ。
35年前の墜落と同じ8月に突如現れたJAL123に対し、ネット上では不審と困惑、驚愕の目が向けられる。

しばらくするとJAL123の表示は画面から消えてしまった。
結論を言えば、実際にJAL123が飛行していたわけでも、犠牲者たちの無念を乗せたJAL123の亡霊が空を飛んだわけでもない。JALによればある飛行機が成田空港での整備作業中に任意の便名を設定した際、ダミーの便名として「0123」を使用したのだという。

当然人騒がせな話だと片づけることもできるのだが、墜落事故からすでに35年が経過しているということは、JALにも事故を知らない世代が入社し、事故を知る世代が退職しているということだ。JALは墜落事故後、安全啓発センターを設置したり、毎年行われている御巣鷹の尾根の慰霊登山などを通じて社員の安全教育に努めているとのことだ。

しかし、それにしてはこの「JAL123」の名称使用はいささか事故に対する意識や犠牲者遺族への配慮を欠いているように思う。例え実際に事故を経験した社員がいなくなったとしても、事故の風化と安全意識の崩壊だけは食い止めてほしいと切に願う。

最後に

1985年8月12日JAL123便に搭乗した誰もが、自らがこの日歴史に刻まれる大事故に巻き込まれるなど想像もしていなかっただろう。犠牲者520人の死に際に520の思いがあったことを考えると胸が締め付けられる。
事故から幾年もの年月が経過し徐々に事故を直接に知る人が減っていく中、この大事故を風化させるようなことだけは決してあってはならない。

安全神話などという虚構のキャッチコピーに踊らされず、常に安全と正しさを疑い続ける視点と態度が私たちには求められているのだろう。
最後にJAL123便墜落事故により犠牲となった520人の皆様のご冥福をお祈り申し上げます。

※画像はイメージです。

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