これからジャージーデビルの誕生に関して記述するが、正直、歴史学的な自信がまったく無い。
「アメリカ建国の父」の関与も含めて、どこまで正確なのか。
無責任な話だが、検証する途中経過、そのレポートとして読んでいただきたい。
ジャージーデビルは未確認生物(UMA)の一匹として受容されてきた。
だがフォークロアの研究者によると、ジャージーデビルの生成と普及には、植民地時代から独立戦争へと至るアメリカの抜き差しならぬ歴史が絡んでいるという。
独立戦争やアメリカ国内の宗教対立、おまけに土地争い、妬み、僻み、やっかみなど現実的すぎる問題が複雑に絡まり合って生まれた幻想が、ジャージーデビルなのだ。
ジャージーデビル誕生前史
ジャージーデビルには、「リーズデビル(Leeds Devil)」「リーズの悪魔(Devil of Leeds)」との別名義がある。「Leeds」とはアメリカに実在した人物や地名を指す。
ニュージャージー州アトランティック群には、リーズポイントという地名が付いた土地がある。地名の由来は1677年にイングランド北部から移住してきた測量技師ダニエル・リーズ一家が移住、土地の所有権を主張したことから。
このとき、まだアメリカは国家として独立していない。アメリカ独立戦争が勃発するのは1775年のことだ。
この時点で既に、後にニュージャージー州として統合される一帯は土地の利権をめぐり深刻な紛争状態に突入して久しかった。ウェスト・ジャージーとイースト・ジャージーの境界線を、どこに決めるのかで暴力沙汰が頻発、紛争が深刻化した1702年から、州の最高裁判所が最終的な決着をつけたのが1855年。
終結まで153年もの歳月を要していた。
戦争とジャージー・デビル伝説のはじまり
カトリックとの抗争により誕生したキリスト教プロテスタント、その宗派のひとつにクエーカーというものがある。クエーカー教徒であったダニエル・リーズの一家は1687年ごろから、それまで身を置いていた宗教コミュニティ内部で衝突を起こすようになる。
その原因のひとつに、ダニエル・リーズが発行していたアルマナックという出版物があった。
アルマナックは、日本でたとえるならばカレンダーに近く、ダニエル・リーズは占星術の予測などプロテスタントの教義に反する内容を掲載したことで激しい反発を受ける。
ダニエル・リーズは積極的にクエーカー教徒からの非難に応じ、延々と論争を繰り広げる傍ら、アルマナックに占星術の掲載を続け、占星術、キリスト教神秘主義、魔術などの研究成果を書籍を出版してさらなる反発を呼ぶ。
こうしたリーズ家は、クエーカー教徒のコミュニティから「異教的」「神への冒涜」と非難を浴びた。
一方で当時のニュージャージーを統治していたイギリス王室の総督コーンベリー卿とリーズ家は手を組んだ。
ダニエル・リーズはコーンベリー卿の参事官を務めるとともに、クエーカー教徒から英国国教会に改宗。当時、イギリスの植民地支配を支持する派閥とアメリカ独立を支持する派閥のあいだで政治抗争が起きており、そこへ信仰の違いも絡んで、事態は宗教戦争と国家間戦争の領域へと突入する。
ダニエル・リーズと一族はパイン・バレンズを含む広大な土地の所有権や利権を有する実業家であり資産家、イギリスの植民地支配を支持する王党派の公職の関係者でもあった。
ニュージャージーの境界線争いの最中にも自身の名を冠した土地を持つのだから、かなりのヤリ手であったらしい。そうした人物と一族だけに、地元住民の妬み・僻みの対象とされるのは避けがたい。まして宗教的にも政治的にも対立が激しい相手なら、なおのことだ。
イギリス支配と王室を支持して占星術を研究、英国国教会へと鞍替えしてクエーカー教徒を神学的に否定するものを出版するリーズ家と、プロテスタントでありアメリカ独立への機運を高めるクエーカー教徒の政治的対立は長期化。世代や世紀を跨いで1720年代以降にも続く。
この論争と商売争いにあるとき、噛みついてきたニュージャージーの出版業者がいた。
現在でも岩波文庫から自伝が出版され、ジョージ・ワシントンと並んでアメリカ独立に大いに寄与する後のアメリカの政治家ベンジャミン・フランクリンである。おなじアルマナックを制作、出版していたライバル業者がベンジャミン・フランクリンだった。
リーズ一族とベンジャミン・フランクリンの占い合戦
ベンジャミン・フランクリンが発行していたアルマナックは1932年から1758年まで出版され続け、フランクリンが政界へと進出するステップとなるほど売り上げを得た。フランクリンのアルマナックは新聞の性格もあって、ニュース記事の他にもアメリカ独立を支持する論説も掲載されていた。
そうしたベンジャミン・フランクリンにとって、リーズ家の発行するアルマナックは商業上の競合相手であるばかりでは収まらなかった。ベンジャミン・フランクリンはアメリカ独立を支持していたが、リーズ家はイギリスの植民地支配を支持、政治的にも対立していた。この対立に占星術が絡んでくる。
互いに気に入らないリーズ家とベンジャミン・フランクリンは、双方が発行するアルマナックが毎年に掲載する占星術で「タイタン・リーズは今年の何月何日に死ぬ!」「ベンジャミン・フランクリンは今年の何月何日に死ぬ!」などと、競合相手が死亡する勝手な予想を掲載しあう罵倒合戦が始まってしまう。
そうして互いに、当てずっぽうの占星術の結果をもとに「おまえ死ね!」と罵り合っていた最中の1738年、タイタン・リーズが偶然にも本当に亡くなった。
リーズ家の占星術が非難されて、ベンジャミン・フランクリンの占星術はオッケーとされる当時のアメリカ市民の判断基準が分からないが、ともあれタイタン・リーズを嫌うニュージャージーの住民たちの間では、「タイタン・リーズは神様のバチが当たって死んだ」ことになった。
タイタン・リーズが亡くなった時点で既に、パイン・バレンズやニュージャージー全体では、リーズ家はゴシップの対象とされて久しかった。
当時、マスメディアはおそろしく未発達であり、そうしたことも手伝い、クエーカー教徒やアメリカ独立派のコミュニティではまことしやかに、あるいはデマカセ全開で「リーズ家は一族全員が死んだ」「悪魔と契りを結んだために息子は死んだ」「リーズ家は悪魔崇拝の儀式を行っている」。
ついにはて「リーズ家の魔女は悪魔の子どもを産んだ」などなどのゴシップが語られた。
そうして「悪魔のリーズ一族」の伝説は、後世に伝達されていく。そうしてタイタン・リーズの死から数十年後、アメリカはイギリスその他ヨーロッパの支配から脱するべく独立戦争へと突入していく。
リーズ家の悪魔は人気コンテンツ
現在、知られる「ジャージーデビル」のデザインとストーリーは19世紀ごろ、原型らしきものが世に出回っている。ただし、「ジャージーデビル」ではなく「リーズの悪魔」の名で。
ニュージャージーの住人たちの間で「リーズの悪魔伝説」が次第に生成され始めたのが1730年代。1738年にタイタン・リーズが亡くなり、独立戦争は1783年にベンジャミン・フランクリンたち独立派が勝利、王党派パイン・ロバーズは敗北した。英国王室を支持していたリーズ家の評判は言うまでもない。
現在の「ジャージーデビル」の原型が世に出回り、ダニエル・リーズとタイタン・リーズは亡くなって100年以上も経っている。
この時点で、アメリカ独立戦争から、ふたたびイギリスと戦争を行った米英戦争、アメリカがメキシコへと侵攻した米墨戦争など、アメリカ人は三度もの国家間戦争を経験している。無数の戦死者を出した後でも、アメリカ独立に反旗を翻した「リーズ家の悪魔伝説」は、建国神話のネガとして生き延びた。
ニュージャージーの地元紙『ザ・アトランティック』1859年5月号では、パイン・バレンズの住人のあいだで人気のあるゴースト・ストーリーを紹介している。そこで語られるストーリーやデザインは、だいたい現在のジャージー・デビルと同じものだ。
ただニュージャージー広域ではなく、もっぱらパイン・バレンズ御当地にのみ出現する妖怪であった。こうして新聞紙上で伝えられて以降、「リーズの悪魔」は次第に活動範囲を広げていく。
ジャージー・デビルの誕生
ジャージー・デビルは1735年の嵐の夜、リーズ一族の魔女が生んだ13番目(13はキリスト教圏では不吉な数字)の子ども、という設定になっている。
1909年1月、ニュージャージー全域でジャージー・デビルの目撃情報が何故か多発する。ときには小都市の路面電車や社交クラブに襲い掛かるなど豪快な行動もとったそうだが、このとき「リーズの悪魔」は地元を離れ、はれてニュージャージーとしてご当地キャラとなったようだ。
ところでその後、リーズ家はどうなったのかといえば、当然ながら一族は滅亡などしていない。遥か遠くの時代にアメリカの土を踏み、いろいろあって妖怪扱いされた祖先の境遇に困惑しつつ、地道に家系を辿っている子孫が元気に暮らしている。
ジャージー・デビルとは、イギリス支配とアメリカ独立の機運、宗教上の対立と紛争、地元住民の妬み・僻み、入植者にとっては未踏の地が多かった17世紀から18世紀のアメリカの風土、そうした諸々が結実したキャラクターなのだ。
現在ではニュージャージーのプロ・アイスホッケーチーム「ジャージー・デビルズ」が地元の盛り上げに一役かっている。ジャージー・デビルとアメリカ
featured image:Philadelphia Newspaper, Public domain, via Wikimedia Commons
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