母が目を離した、ほんの一瞬だった

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私が三歳の頃、ほとんど人見知りをせず、目が合えば誰にでもニコニコ笑いかける子どもでした。
両親や祖父母は、「愛嬌がある方が可愛がられるから」と喜んでいたそうです。
これは、母から繰り返し聞かされてきた話です。

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ある昼下がり

専業主婦だった母は、幼い私を連れて、よく近所のデパートへ出かけていていました。
その日、買い物の途中でフードコートに寄り、母は私に食事を食べさせながら、自分も軽く食事をしていたそうです。

しばらくすると、隣の席に、身なりの整った老夫婦が座った。
人見知りをしない子供だった私は、いつものように相手を見て笑っていたようです。

「可愛いねぇ⋯⋯いい子だねぇ⋯⋯⋯」

老婦人にそう声を掛けられ、母も「ありがとうございます」と笑って返しました。

食事が終わり、母は荷物をまとめるために視線を落としたのは、ほんの一分あるかないか。
顔を上げた瞬間、私は消えていたのです。
一気に血の気が引き、椅子を倒す勢いで立ち上がった母が必死に辺りを見回します。
すると人混みの向こうに、先ほどの老夫婦が私を抱いて歩いていくのが見えたのです。

母は走り「その子、私の子です!返してください!」と叫びました。
しかし、振り向いた老夫婦は驚くほど落ち着いた顔でこう言ったのです。

「何を言ってるんですか。この子は私たちの孫です」

この子は私の子

騒ぎを聞きつけて人が集まり、異様な雰囲気に。
それでも私は、腕の中でニコニコ。
取り乱し、泣きそうな母。
冷静で上品な老夫婦。

どちらが本当の保護者なのか?
周囲が迷い始めた空気が、母にははっきり分かった。

その時、そばにいた中年の男性客が言った。

「この子のフルネームを、それぞれ私に耳打ちしてください」

母はすぐに娘の名前を耳打ちした。
だが老夫婦は、なぜか黙ったまま。

ようやく騒ぎは収まり、私は老婦人から引き剥がされて母の腕に戻された。
それでも老婦人は、なお食い下がったという。

「その名前が、本当にこの子の名前だという証拠がないでしょう」

母は徐々に冷静さを取り戻し、母子手帳を取り出して、先ほどの男性客に見せた。
それを確認したデパートの警備員は、老夫婦を事務室へ連れて行き、その後、警察も呼ばれたそうだ。

老夫婦の意外な動機

後ほど、警察とデパートの責任者の方から連絡がありました。
なぜ私を連れ去ろうとしたのかと問いただすと、老婦人は悪びれる様子もなく、平然とこう答えたという。

「だって、この子、とても可愛いんですもの。うちの孫として育てたほうが、この子は幸せになれると思ったの」

その口調には、自分たちが何か悪いことをしたという感覚がまるでなかったそうだ。

きちんとした服装に、穏やかな口調。老夫婦は一見すると、ごく普通の上品な老人にしか見えなかったという。
だからこそ、あの場にいた男性客が「子供の名前を言ってみてください」と口を挟まなければ、母が母子手帳を取り出すのが少しでも遅れていたら、私はそのまま連れて行かれていたかもしれない。

この話を思い出すたびに、愛想よく笑う息子の姿が重なります。
母が目を離したのは、ほんの一瞬。
それだけで、子どもはいなくなる。

しかも相手は、怒鳴り散らす不審者でも、薄汚れた誘拐犯でもない。
身なりの整った、どこにでもいそうな老夫婦。

だから今でも母は、「人は見た目では分からない」と繰り返す。

※画像はイメージです。

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