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加藤隼戦闘隊の栄光とその後

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陸軍飛行第64戦隊と言えば、知る人ぞ知る加藤隼戦闘隊です。
彼らの活躍をざっと解説していきます。

目次

加藤隼戦闘隊の誕生

加藤隼戦闘隊が産声を上げたのは意外にも太平洋戦争開戦直前の1941年8月でした。
それから同じ隼装備の59戦隊、50戦隊と共にマレー半島、パレンバン攻略、ビルマ侵攻などに参加しています。

隼は南方作戦初期を通じて、おおむね3倍の敵航空兵力と対峙しそのこと如くを破ることに成功しました。
海軍の零戦隊などでは、編隊空戦よりも個人技量が重視される傾向もありましたが・・・加藤は違いました。

■ 飛行第2大隊第2中隊長時代の加藤建夫と九五戦撮影者不明 / Public domain

編隊空戦にこだわった戦術

加藤建夫の優れたところは、個人技量ではなく編隊空戦にこだわったことと言われています。
このため、加藤自身の撃墜数も18機と他のエースに比べて少ないのが特徴です。
(西沢正義が100機以上、坂井三郎が公認28機)

しかし戦隊は味方の喪失数も少なく、戦隊としての部隊感状は7枚と陸軍最多となっています。
このことが64戦隊を英雄たらしめた大きな要因になっていると言えるでしょう。

ビルマ作戦

エピソードとしてビルマ作戦中、97式重爆の護衛任務に従事していた64戦隊が敵の作戦におびき出され爆撃機の護衛が手薄になったことがありました。
帰還後、加藤は作戦従事者を全員呼びつけ激しく叱責したそうです。

そんな加藤も1942年5月22日、ベンガル湾上空で遭遇したブレニム爆撃機要撃でまさかの被弾。
ベンガル湾に自爆して戦死します。彼の死は敵味方双方に衝撃を与えました。

加藤の戦死後も64戦隊はビルマ方面で米英軍と航空戦を展開していきます。
64戦隊は終戦のその時まで、ビルマの空で隼で戦い続けたのです。

初戦の快進撃も、後半の苦戦と苦難も常に隼と共にあった64戦隊だからこそ、ここまで歴史に残ったのかもしれません。

■映画『加藤隼戦闘隊』第64戦隊機を「演じた」明野陸軍飛行学校所属の一式戦「隼」二型(キ43-II)東宝 (Toho) / Public domain

義足のパイロット

後に鹵獲P51のパイロットとして有名なる黒江保彦、義足のパイロットとして有名な檜與平などが64戦隊のエースとして活躍し続けました。
64戦隊は隼で最新鋭のP51戦闘機を撃墜した最初の部隊としても知られることになります。

皮肉にも、その際に重傷を負った檜大尉は義足のパイロットとして復帰後、1945年7月の伊勢湾上空空戦で5式戦に搭乗して自分の足を奪ったP51を撃墜したのです。
戦史上、義足のパイロットが敵を撃墜したのは彼が最後と言われています。

eyecatch source:東宝 (Toho) / Public domain

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